楷書

九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳

九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいは、魏徴ぎちょうが文章を作り、欧陽詢おうようじゅんが文字を書きました。 九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳を紹介します。 また、九成宮醴泉銘の書き方・臨書のコツなどはこちらで詳しく解説しています。↓...
書家

王羲之が務めた会稽内史ってどんな仕事?王羲之の功績を紹介

351年(永和7年)に王羲之おうぎしが49歳のとき、中央政府から離れ、地方長官である会稽かいけい内史ないしになりました。 会稽かいけい内史ないしとは、会稽という土地を治める政治を行う人のことです。王羲之は書家であり、政治家でもありました。 ...
書家

呉昌碩の代作をまかされた趙子雲(ちょうしうん)とはどんな書画家だったのか

書画家として成功した呉昌碩ごしょうせきのもとには、たくさんの弟子がつき従ってきました。 弟子たちの目標は、自分も呉昌碩のように書画家として作品を売り、経済的に成功することです。 よって必然と弟子たちの書画作品は呉昌碩とそっくりになります。 ...
書家

呉昌碩のよき友人、王一亭(おういってい)とは?

明末から中華民国にかけて活躍した書画家・王一亭おういってい(1867~1938)は、呉昌碩ごしょうせきと関連づけて語られることが多いです。 それは、王一亭は呉昌碩晩年のよき友人、弟子であり、時には代作をつとめるほどの人物だったからです。 で...
日本の書家

河井荃廬(かわいせんろ)について解説/呉昌碩に師事した日本人篆刻家

呉昌碩ごしょうせきは多くの弟子がいましたが、そのなかで日本人の弟子が1人だけいました。 それが河井荃廬かわいせんろです。 荃廬せんろは呉昌碩にあこがれ、呉昌碩門下への入門を望み、それが叶うと毎年のように呉昌碩をたずねました。 今回は、河井荃...
書家

呉昌碩について解説【石鼓文の臨書作品についても解説】

詩・書・画・篆刻の四芸に優れており、日本でも早くから多くの愛好者がいる呉昌碩ごしょうせき。 清朝末期から中華民国初期に活躍した人で、中国最後の文人と言われています。 また呉昌碩は、書画は趣味であって、売ることを前提にしない今までの文人の枠を...
日本の書家

呉昌碩と日下部鳴鶴の関係【呉昌碩の書画作品が日本で有名になったきっかけ】

日本において、呉昌碩ごしょうせきの書画作品や篆刻作品を愛好する人は多くいますが、そのはじまりは明治・大正の時代に日本書道界の指導者として活躍した日下部鳴鶴くさかべめいかく(1838~1922)が世間に広く伝えたことがきっかけと考えられていま...
その他

書道作品の売買に使用された価格表/潤格(潤例)とは

\使いやすさを追求した書道筆/ 潤格(潤例)とは 書道において、作品の揮毫料の一覧表を潤格じゅんかくまたは潤例じゅんれいといいます。 潤格の発生時期はわかっていませんが、潤格が使われていた事例は明末(1600年ごろ)から見られます。 職業書...
法帖

鄭道昭の鄭羲下碑(ていぎかひ)とは/内容や書き方を解説

鄭羲下碑(ていぎかひ)は、作者である鄭道昭ていどうしょうが父の鄭羲ていぎ(426~492)のために書いたもので、北魏永平4年(511)にはじめは天柱山に刻したのを上碑、雲峰山に「石の好きを以て此れに之を刊す」とあるのを下碑と呼びます。 この...
日本の書家

貫名菘翁(ぬきなすうおう)について詳しく解説:作品も紹介

貫名菘翁(ぬきな すうおう)は江戸時代の書家で、日本書道史上においては空海以来の能書家と謳うたわれています。 菘翁すうおうは生涯の大半を京都で生活し、書道は王羲之おうぎしを代表とする晋しん時代と楷書が完成する唐とう時代の書を中心に学びました...