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徐渭(じょい)とはどんな書画家だったのか詳しく解説

2025 4/12
書家 中国の書家
2025年4月12日
徐渭 花卉図巻
徐渭 花卉図巻

徐渭じょいは明みん時代後期の文人で、詩書画どれもよくしましたが、とくに画人として有名です。

自由奔放で大胆な画風が人気で、後の清しんの時代の画家にも大きな影響を与えた人物です。

そんな偉大そうに見える徐渭じょいですが、彼の人生はとても壮絶なものでした。

今回はいったいどんな人生を送った人なのか、彼がどんな人だったのか紹介したいと思います。

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目次
  1. 徐渭の人生
    1. 徐家の複雑な家庭環境
    2. 試験に何度も落第する
    3. 1度目の結婚
    4. 兄2人と妻をたてつづけに亡くす
    5. 塾を開いて生活費を稼ぐ
    6. その文才を認められて、胡宗憲の幕僚となる
    7. 2度目の結婚
    8. 精神を病んで自殺を試みる
    9. 再婚相手を殺して獄中生活
    10. 釈放後の売画生活

徐渭の人生

徐渭(じょい)正徳16年2月4日生まれ。字あざなを文長、雅号がごうを天池といいました。紹興府山陰県大雲坊(現在の浙江省)の人。

徐渭は複雑な家庭環境で育ち、兄弟や妻を早くに亡くしたり、再婚相手を殺してしまって獄中生活を経験したりなど、とても壮絶な人生を歩みました。

さらに、徐渭は官僚になるための試験である科挙(郷試)を何度も受けますが、結局合格せずに諦めることとなります。

まわりの友人や後輩はとっくに郷試を突破し、さらに難しい考試を経て進士となっていく中、取り残されていくのでした。

徐家の複雑な家庭環境

徐渭は腹違いの兄弟を持つなど複雑な家庭で育ちました。

まず、徐渭は父の妻の子供ではありません。

父の正妻の名前は苗宜人といいます。

徐渭を生んだ母は苗宜人の侍女じじょ(召し使い)でした。

人身売買が公然と行われていた時代のため、侍女といっても、売買されてきた女奴隷のことです。

徐渭が生まれたとき、長男の徐淮はすでに30歳、次兄の徐潞は21歳でした。この2人も、苗宜人が産んだ子供ではありません。徐渭の父の最初の妻童氏の生んだ子です。

童氏が亡くなったあと、徐渭の父は13年間独身をつづけたあと、苗宜人を妻に迎えました。

複雑な家庭で育ったようで心配しますが、幸いにも父の正妻の苗宜人には深く愛されたようです。

苗宜人は徐渭が14歳の時に亡くなるのですが、苗宜人の病気が重くなったとき、徐渭はあらゆる神仏に祈願し、血が出るほどはげしく頭を地面にこすりつけ、絶食すること3日に及んだといいます。彼にとってはかけがえのない人だったのでしょう。

「その恩は、百たび身を粉にしても報いることができぬほどだ」と、彼は苗宜人の墓誌銘にしるしています。

試験に何度も落第する

嘉靖かせい19年(1540)、20歳のとき、徐渭ははじめて杭州の郷試(科挙の地方試験)を受験して落第しました。

その後21年間に8回も受けつづけて落第して、やっとあきらめるのでした。

1度目の結婚

1度目の結婚というと、2度目もあるわけなのですが、それは後ほど紹介します。

徐渭は20歳の最初の落第の直後、潘克敬という人の娘の介君(14歳)と婚約しました。

徐家は彼が10歳のころ兄の徐淮の商売がうまくいかず、お金に困っていたらしく、召し使い4人は逃亡し、正妻・苗宜人は離縁されてしまいます。当時の徐家の財力では養いきれなかったのでしょう。

その影響で徐渭の結婚は実質的に入り婿のようなものでした。

婚約すると同時に、彼は婚約者の父の任地・広東陽江県へ行き、翌年の結婚式はそこであげています。

新婦の家の所在地で挙式するのは、男尊女卑の明の時代としては異例のことです。

兄2人と妻をたてつづけに亡くす

結婚した年、貴州にいた次兄の徐潞が前年に死んだという知らせがあったので、葬式のために徐渭は急いで紹興に帰りました。

ちなみにその翌年も郷試を受けていますが落第しています。

嘉靖かせい24年(1545)、結婚4年が経ち妻も18歳となり、男の子が生まれました。枚ばいと名づけられました。

しかしその喜びの後に、長男の徐淮が亡くなります。

追い打ちをかけるように、家屋をめぐって毛氏と訴訟があり、徐家は一文無しとなってしまいました。

その翌年に、妻・介君が19歳の若さで亡くなります。

妻の死後も、徐渭は妻の家に住みつづけ、2年たってやっとそこを出ました。

塾を開いて生活費を稼ぐ

妻介君の家を出てから、彼は東城郡学の近くに借家をみつけ、そこを「一枝堂」と名づけ、塾を開いて生活費を稼ぎました。

塾を開いた翌年、徐渭はまた科挙に落第しました。すでに29歳のことです。長男の枚は5歳になっていました。

しかし、試験には落ちても塾の教師をしていたので収入はありました。

この年、彼は29年も分かれていた生母(苗宜人の侍女)を迎えています。

そして生母の世話をさせるために、胡という姓の女奴隷を買いました。

しかし、この女奴隷はあまりよくなかったらしく、彼は翌年、売り飛ばしてしまいました。

そしてこの売買で訴訟問題がおこって、徐渭はかなり追い詰められます。以前にも家屋について毛氏と訴訟を起こし、そこで負けています。訴訟と縁のある人なのでした。

その文才を認められて、胡宗憲の幕僚となる

嘉靖かせい30年代は、倭寇わこう(日本の海賊)がたびたび中国の沿岸地方を襲った時期です。

朝廷では兵部侍郎へいぶじろう(国防次官)の胡宗憲こそうけんを浙江に派遣して軍務にあたらせました。

嘉靖かせい36年(1557)、倭寇わこう戦の戦死者の慰霊いれい祭が行われた際、その祭文を書いたのが徐渭でした。

徐渭はその文才を認められて、38歳から42歳までの5年間、胡宗憲こそうけんの幕僚ばくりょうとなりました。仕事内容は胡宗憲の代わりに文書を書くことです。

その間に、嘉靖かせい38年(1559)39歳のとき、徐渭は胡宗憲に代わって厳嵩げんすう(政治家、胡宗憲の派閥のトップ)80歳の祝賀文を作りました。

その翌年、彼はやはり胡宗憲に代わって『鎮海楼記』を書きました。

これがすばらしい文章であったということで、胡宗憲は徐渭に銀220両を賞与として与えました。

2度目の結婚

徐渭が銀220両の報酬をもらったのは40歳の時でした。

これで彼は家を買うことができ、その家に「酬字堂」と名づけました。

さらに翌年、張氏という新しい妻を迎えることになります。

もと妻介君を亡くしてから、再婚したのは15年も経ってからとなります。

実は介君を亡くしてから何度かお見合いをしていたのですが、うまくいっていなかったようです。

ただし、この再婚した年に受けた8回目の郷試にも落第しました。これが徐渭の最後の受験でした。

家も買えたし、妻も迎えられたので、もう試験は諦めたのでしょう。

精神を病んで自殺を試みる

厳嵩げんすうが失脚すると、胡宗憲こそうけんも巻き込まれました。嘉靖44年(1565)、ついに胡宗憲は投獄され、獄中で自殺してしましました。

このあたりから徐渭の精神はおかしくなってきます。

彼は自分の墓誌銘を作り、斧で自分の頭をたたき割ろうとしました。

頭の骨は折れましたが、死ぬことはできませんでした。

次に、錐きりで耳を刺しました。毎日の血が流れましたが、それでも死にません。

職人に自分専用の棺ひつぎをつくらせ、槌つち(ハンマー)で自分の睾丸を砕きましたが、やはり死ぬことはできませんでした。

再婚相手を殺して獄中生活

自殺未遂の翌年、徐渭は再婚相手の張氏を殺してしまいました。

雪の日に寒さにふるえている召し使いの少年に、張氏が衣服を与えらことから、夫婦のあいだに口論が起こりました。

徐渭、46歳の嫉妬です。カッとなって棒状のものを力まかせに振り下ろしました。

その結果、死刑になるのは免れましたが、それから長い獄中生活を送ることになります。

幸いにも7年に及ぶ獄中生活は、徐渭の病んでいた精神を救うことになります。

獄中生活はかなり自由だったらしく、親戚知人の面会も認められ、獄中3年目に生母が亡くなった際には、仮出所が許されました。

獄中では彼は頼まれて墓誌銘を書いたり、伝記の執筆、詩を作って生活しました。

隆慶りゅうけい6年(1572)、穆宗ぼくそう(明朝の第13代皇帝)が亡くなったことで大赦たいしゃ(罪に対し刑を許すこと)がおこなわれ、徐渭は年末に釈放が認められました。年はすでに52歳でした。

釈放後の売画生活

釈放後、73歳で死ぬまで彼は放浪と貧困のなかで売り食いの生活を送りました。

胡宗憲こそうけんの幕僚ばくりょうとして活躍していたころに収集した数千部の書籍も、生活費と酒代になってしまいました。

今日みられる徐渭の絵画は、この時期のものが多いです。それは食べていくため、そして飲むために描かれた絵なのです。

万暦21年(1593)、徐渭は73歳で亡くなりました。

正妻・苗宜人の病気が悪くなったときの行動や、再婚相手と口論になっただけで殺してしまうところから、少し変わった人だったことが分かります。

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