書道の歴史

明治時代の書道を解説【中国から来日した楊守敬による碑学派書道の流行】

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明治時代の書道を解説

明治のはじめの書壇しょだんは、関東と関西で覇権が2つに分かれていました。
関東では市河米庵いちかわべいあん巻菱湖まきりょうこ小島成斎こじませいさいそれぞれの流れがあり、一方関西では貫名菘翁ぬきなすうおうの流れ、さらに仮名では加藤千蔭かとうちかげ流が流行していました。

明治政府は、江戸時代の書風・御家流おいえりゅうを廃止して唐様からよう(中国風)を採用したため、御家流のお手本中心の学習方法から古典そのものの拓本を手にした学習方法へと変わっていきます。

拓本を見て学習する方法は、師風を継承していくより、古典から直接研究するように変化していきました。したがって、流派を継承するという感覚も薄れていきました。

そのような状況の中、明治13年(1880)、中国しんの駐日公使何如璋かじょしょうの招きで楊守敬ようしゅけい(1839~1915、清末の地質学者)が来日します。
楊守敬はもともと地質学者で、水の流れを研究していた人物でしたが、1万数千点にも及ぶかん六朝りくちょう時代の碑版法帖ひばんほうじょう拓本たくほん)をたずさえていました。

それのどれもが原石からじかに拓した鮮明な拓本であたったため、それまで日本で刊行されていた法帖とは比較にならないほど精緻せいちな物でした。

楊守敬ようしゅけいは書道にも精通しており、たずえてきた拓本は、当時北京ぺきんで活躍していた潘存はんそんという学者からゆずりうけた精拓を日本にもたらすという結果になりました。

この拓本を日本の日下部鳴鶴くさかべめいかく巌谷一六いわやいちろく松田雪柯まつだせっからが閲覧し、大きな影響を受けます。
彼らは北碑ほくひ(中国の南北朝時代の国の1つである北魏を中心とした北朝の金石資料)を基本をする新派に転向していきました。
楊守敬との会話は、言葉は通じなくても共通の漢字を用いた筆談で行い、新しい碑学を基にそれぞれが書風を確立していきます。

日下部鳴鶴くさかべめいかくは、『談書会誌』や『書勢』といった雑誌を刊行し、碑帖や名跡を紹介していきます。
そのため北魏の書法は驚くほどの速さで世間に流布されていきます。また写真技術の向上がそれを助けました。

また、早々と中国に留学する者も現れました。
中林梧竹なかばやしごちくは明治15年(1882)に中国しんに留学し、北京の潘存はんそんから書法を学びます。
この時期は、日下部鳴鶴くさかべめいかくたちが日本で楊守敬から北碑について学んでいたころと同じ頃です。
中林梧竹なかばやしごちくは明治17年(1994)、清国から多数の六朝書りくちょうしょ(六朝時代の書)を携えて帰国し、六朝書を日本に紹介します。

また、東本願寺の僧・北方心泉きたかたしんせんは、明治10年(1877)、清国に浄土真宗じょうどしんしゅうを布教するため上海へ行き、同じく北魏の書風にふでれ大いに啓発されます。

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明治時代の書道家を紹介

日下部鳴鶴(1838~1922)

日下部鳴鶴くさかべめいかくの生い立ちは幕末維新の波に大いに影響されています。

近江おうみ(滋賀県)彦根藩士ひこねはんしで父(養父)は代々、井伊いい家に仕えた家でしたが、桜田門外の変で殉死じゅんしします。
鳴鶴は明治2年(1869)、東京に出て太政官だいじょうかん大書記だいしょきとなり、大久保利通おおくぼとしみちに信任されます。
しかし、大久保利通は明治11年(1878)に暗殺されてしまいます(紀尾井町きおいちょうの変)。

鳴鶴は明治12年、42歳で職を去り、書道で身を立てることを決意しました。
その翌年に楊守敬ようしゅけいが来日し、かん六朝りくちょうの書にふれ、今までの自分の書を大改革します。
廻腕法かいわんほう」という独特な筆づかいを編み出し、隷・楷・行・草書にいずれも卓抜した技法を生み出し、明治大正の日本の書道界に大きな影響を与え、鳴鶴の書法は大流行しました。

巌谷一六(1834~1905)

巌谷一六いわやいちろくは、近江おうみ水口藩みなくちはんの医師の子として生まれます。

明治初年に官僚となり、明治24年(1891)貴族議員となります。
はじめ中沢雪城せつじょうについて巻菱湖まきりょうこ趙孟頫ちょうもうふを学びましたが、楊守敬ようしゅけいの碑帖から大きな感銘を受け、新境地の書を確立しました。

松田雪柯(1819~1881)

松田雪柯は伊勢(三重県)山田の出身。

若くして京都で学び書法は貫名菘翁の唐様を学びます。

はじめ伊勢の祠官になりますが、明治11年(1878)に東京に出てきます。

楊守敬の来日前から中国書法に興味を抱き研究していましたが、楊守敬のもたらした碑版法帖にふで六朝書法を学びます。

残念なことにその1年後病に倒れ、伊勢に帰り亡くなりました。

中林梧竹(1827~1913)

中林梧竹は、肥前ひぜん(佐賀県)小城おぎ鍋島なべしま藩に仕えた名家の出身です。

19歳で家を出て市河米庵いちかわべいあんの門人山内香雪こうせつに師事します。

明治15年(1882)に清国へ留学、当時北京で活躍していた潘存はんそんから益を受けます。
明治17年(1884)には多数の六朝書を携えて帰国しました。
その後、銀座の洋服店「伊勢幸」に寓居ぐうきょし「銀座の書聖しょせい」として尊敬されます。

長鋒柔毫ちょうほうじゅうごうの筆を駆使した書法は、
筆意ひついかんに取り、筆法をずいとうに取り、之に帯ばしむるに晋人しんじん品致ひんちを以てし、これに加うるに日本武士の気象を以てす。これわが家の書則なり」
として、漢魏六朝を根底とした雄大で闊達かったつな書を多く残しました。

北方心泉(1850~1905)

北方心泉きたがたしんせんは、加賀かが(石川県)金沢かなざわ出身で浄土真宗大谷派の僧侶です。

明治10年(1877)、清国に浄土真宗を布教することを命じられ上海へおもむきます。
上海別院に江蘇教校こうそきょうこうを設立し留学生を監督教育します。
その後、清国の緒名山、名刹めいさつを歴訪し、当時の諸名士たちと交遊しました。

ここで清末の北魏の書風にふれて、篆書・隷書に特色ある作品をのこしています。

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