351年(永和7年)に王羲之が49歳のとき、中央政府から離れ、地方長官である会稽内史になりました。
会稽内史とは、会稽という土地を治める政治を行う人のことです。王羲之は書家であり、政治家でもありました。
もともと本人の希望は宣城郡太守でしたが、聞き入れられなかったようです。宣城郡とは、安徵省東南部に位置し、文化レベルの高い会稽に比べるとずいぶん田舎です。王羲之は、戦争や内部の権力争いに身も心も疲れはてて、静かな落ち着き場所を求めていたのでした。
しかし、中央政府としてはそう簡単に王羲之を田舎に引っ込ませるわけにはいきません。結局、地方長官として、地域としては最も難しい場所(会稽)の政治を任せられたのです。
今回は、王羲之が務めた会稽内史とはどんな仕事だったのか、希望の任地でなかったとしても国民のために尽くした会稽での功績を紹介します。
当時の会稽の状態はよくなかった
会稽は気候温暖で農業、山林、水産のどれもが生産豊富でした。
しかし、それだけに国家からはたくさんの税収を求められ、しかも歴史が長いだけにそこにいる役人たちは悪賢く、農民は疲弊しきっていました。
『晋書』王羲之伝にある「遣謝安書」には、「会稽の農民のもはやどうしようもない深刻な状況」と、その長官としての苦悩が語られています。
王羲之は会稽内史という地方長官の立場でこれらの問題に立ち向かい苦闘し続けたのです。
会稽内史に赴任してから最初の仕事は士人たちとの交流
王羲之が会稽に到着して役所での勤務が始まりますが、そこでは中央の政府とはちがって、その土地の士人・豪族との付き合いが必要でした。
彼らの協力を得なければその土地の政治を進めることはできません。
会稽郡の士人たちが次から次へと信任の会稽内史のところに挨拶に来ます。
王羲之はその対応に追われました。
『右軍書記』によると、
「客人に会うのがひどく嫌で、繁雑なことにはとても耐えられません。この性分は死んでも治らないでしょう。しかし世間ではこのように付き合いを重んずるのです。都郡は江東の要所であり、私のような才能のない者には勤まるはずもありません。あなたがご存じないだけです。あなたと同じような大郡に任ぜられたのは、私にとっては分に過ぎたことです。今、こちらの士人の相手をしているので、門を開いて無理して対応しているところです。もう大変でございます。」
とあります。
王羲之はもともと人付き合いのいい方ではありません。
しかし会稽の長官になったからには、王羲之は我慢してそこの人たちに会い、世間話をし、機嫌もとらなければなりませんでした。
農民の食料を確保しようと注力する王羲之
国家の財政は多くが農民の生産力によって支えられていますが、農民の負担はそれだけではありませんでした。
時に東晋は北の領土奪回のために軍を進めていたのですが、その兵力・食料の補給は政府の課題であり、会稽郡にもその負担は重くのしかかってきました。
多くの農民は軍隊の一員として強制的に徴兵され、また軍の武器や食料の運搬も駆り出された農民が行いました。
戦争ではときには何万という兵が無駄死にをさせられますが、そのほとんどが農民です。
しかも、兵士や労力を目的としているため、家の中でも体力のある者が徴兵されます。
働き手を失っては、農民としていままでどおりの生産ができるはずありません。
これを知っていた王羲之は、会稽が不作によって食糧が不足したときには、穀物を蓄えた倉庫を開いて食料を農民に給付し、されに政府に食料の提供の軽減を求めて認めさせました。
汚職をやめさせる王羲之
余裕のない財政を改善させるためには、政府は農民から徴収する税金を増やすしかないのですが、どれだけ増やしてもなかなか改善されません。
当時の郡内には汚職がはびこり、とくに穀倉関係の監督官には横領者が多くいました。
農民にたくさんの税を強いておきながら、ただ悪徳官吏が貯えをふやすばかりでは全く何の意味もありません。
これに気づいた王羲之は、すぐにそれぞれの地域に調査官を送って、実情を調べさせました。
その結果、不正が行われていなかったと地域は1つもないというありさまであることが判明しました。
王羲之はこの解決策として、
- 年度末には所轄官吏の成績をチェックする
- 成績が悪かった者は御史台(裁判所にあたる)に呼んで処刑する
- どんなに高い身分の者でも、懲戒免職か左遷させる
と提案しました。
政府の業務を整理する王羲之
政府の行政のありかたに対しても、王羲之は具体的な提案を出しています。
政府が地方に場当たり的に法令を付け加えるため、古い法令と新しい法令とが混ざり合って、役所の書類の処理が複雑になり、無駄な業務が増えてしまっているといい、
- 地方の事情は地方の人間の方がよく分かっているので、制度を簡単にして地方行政をやりやすくし、政府から一定の期限を言い渡して、所轄官吏にまかせる。
- 重要なことは主簿(群県官署の役人)に任せ、軽いことは五曹(地方の雑務をとりしきる5つの役目)に行わせる。
と提案しました。
都市部の人口問題を解決する王羲之
さらに、王羲之は都市部の人口が減少していることにも言及しています。
政府は農民だけでなく、職人・医者までも徴兵に駆り出すため、一族がみんな亡くなってしまい、職人・医者を受け継ぐものがいません。
あまりにも過酷なので、兵役に行く途中で多くの者が逃げてしまい、次にその責任を問われることを恐れて監督官までも逃げてしまうのでした。さらに、その家族や近隣までもが罪を問われることを恐れて逃げてしまいます。
このことが都市部の人口の減少につながっているとして、その対策として
- 死刑囚のうち、罪の軽い者を死刑にしない(殺さず兵力にする)。
- 禁固5年の囚人を兵役、荷物を運ぶ役にあてる。
- 禁固5年の囚人の中から素質のある者を探して、職人や医者にあてる。
- 囚人の家族も都市部に移し、囚人たちの逃げ込める場所をなくす。
これらが、都市部の維持に役立つだろうと提案しました。
王羲之はなぜ会稽内史をやめてしまったのか
王羲之は永和11年(355)11月3月、53歳で「病と称し」会稽内史をやめて官界からも去りました。
まだ52歳は引退する年齢ではありませんでしたが、やめることとなった原因は王述という人物とのいさかいにあります。
王述は会稽内史の前任者で、2人の関係は性格的に合わず、その中はよくなかったといいます。
『晋書』王羲之伝および『世説新語』仇隟篇によれば、
「王述はひそかに部下に命じて会稽郡の不正行為を調査させ、郡の担当者を呼び出して尋問したので、担当者はその対応に疲れ果ててしまい、王羲之は深くそのことを恥じ、遂に病と称して群を去る決心をした。」
といいます。
また『世説新語』によれば、
「不正行為を王羲之に示して、身の振り方を決めるようにせまり、王羲之は仕方なく病と称して群を去ることになる」
といいます。
普段から王羲之のことを嫌っていた王述から、郡の行政のありかたに文句をつけられ、文書の不備を指摘されたことにより、会稽内史から退くのでした。
会稽内史を務めたのは4年間でした。そんな苦闘の日々の中で蘭亭序を書いたんですね。