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王羲之が務めた会稽内史ってどんな仕事?王羲之の功績を紹介

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351年(永和7年)に王羲之おうぎしは中央政府から離れ、地方長官である会稽かいけい内史ないしになりました。

本人の希望は宣城せんじょう太守たいしゅでしたが、聞き入れられなかったのです。

宣城郡とは、安徵あんき省東南部に位置し、文化レベルの高い会稽に比べるとずいぶん田舎です。

王羲之は、戦争や内部の権力争いに身も心も疲れはてて、静かな落ち着き場所を求めていたのでした。

しかし、中央政府としてはそう簡単に王羲之を田舎に引っ込ませるわけにはいきません。

結局、地方長官として、地域としては最も難しい場所を任せられたのです。

今回は、王羲之が務めた会稽内史とはどんな仕事だったのか、そこでの功績を紹介します。

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当時の会稽の状態はよくなかった

会稽かいけいは気候温暖で農業、山林、水産のどれもが生産豊富でした。

しかし、それだけに国家からはたくさんの税収を求められ、しかも歴史が長いだけに、そこにいる役人たちは悪賢く、農民は疲弊ひへいしきっていました。

『晋書』王羲之伝にある「遣謝安書」には、会稽の農民のもはやどうしようもない深刻な状況と、その長官としての苦悩が語られています。

王羲之は会稽内史という地方長官の立場でこれらの問題に立ち向かい苦闘し続けたのです

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農民の食料を確保しようと注力する王羲之

国家の財政は多くが農民の生産力によって支えられていますが、農民の負担はそれだけではありませんでした。

多くの農民は軍隊の一員として強制的に徴兵され、また軍の武器や食料の運搬も駆り出された農民が行いました。

戦争ではときには何万という兵が無駄死にをさせられますが、そのほとんどが農民です。

しかも、兵士や労力を目的としているため、家の中でも体力のある者が徴兵されます。

働き手を失っては、農民としていままでどおりの生産ができるはずありません。

これを知っていた王羲之は、会稽が不作によって食糧が不足したときには、穀物を蓄えた倉庫を開いて食料を農民に給付し、されに政府に租税の軽減を求めて認めさせました

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汚職をやめさせる王羲之

余裕のない財政を改善させるためには、政府は農民から徴収する税金を増やすしかないのですが、どれだけ増やしてもなかなか改善されません。

当時の郡内には汚職がはびこり、とくに穀倉関係の監督官には横領者が多くいました。

農民にたくさんの税を強いておきながら、ただ悪徳官吏が貯えをふやすばかりでは全く何の意味もありません。

これに気づいた王羲之は、すぐにそれぞれの地域に調査官を送って、実情を調べさせました。

その結果、不正が行われていなかったと地域は1つもないというありさまであることが判明しました。

王羲之はこの解決策として、

  • 年度末には所轄しょかつ官吏かんりの成績をチェックする
  • 成績が悪かった者は御史台ごしだい(裁判所にあたる)に呼んで処刑する
  • どんなに高い身分の者でも、懲戒免職か左遷させる

と提案しました。

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政府の業務を整理する王羲之

政府の行政のありかたに対しても、王羲之は具体的な提案を出しています。

政府が地方に場当たり的に法令をいじり回すから、古い法令と新しい法令とが混ざり合って、役所の書類の処理が複雑になり、無駄な業務が増えてしまっているといい、

  • 地方の事情は地方の人間の方がよく分かっているので、制度を簡単にして地方行政をやりやすくし、政府から一定の期限を言い渡して、所轄しょかつ官吏かんりにまかせる。
  • 重要なことは主簿しゅぼ(群県官署の役人)に任せ、軽いことは五曹ごそう(地方の雑務をとりしきる5つの役目)に行わせる。

と提案しました。

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都市部の人口問題を解決する王羲之

さらに、王羲之は都市部の人口げ減少していることにも言及しています。

政府は農民だけでなく、職人・医者までも徴兵に駆り出すため、一族がみんな亡くなってしまい、職人・医者を受け継ぐものがいません。

あまりにも過酷なので、兵役に行く途中で多くの者が逃げてしまい、次にその責任を問われることを恐れて監督官までも逃げてしまうのでした。さらに、その家族や近隣までもが罪を問われることを恐れて逃げてしまいます。

このことが都市部の人口の減少につながっているとして、その対策として

  • 死刑囚のうち、罪の軽い者を死刑にしない(殺さず兵力にする)。
  • 禁固5年の囚人を兵役、荷物を運ぶ役にあてる。
  • 禁固5年の囚人の中から素質のある者を探して、職人や医者にあてる。
  • 囚人の家族も都市部に移し、囚人たちの逃げ込める場所をなくす。

が、都市部の維持に役立つだろうと提案しました。

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王羲之はなぜ会稽内史をやめてしまったのか

そんな最中に、会稽内史の前任者で普段から王羲之のことを嫌っていた王述おうじゅつから、郡の行政のありかたに文句をつけられ、文書の不備を指摘されます。

部下の役人たちはおろおろするばかりで、なんの対応もできず、王羲之は大恥をかかされてしましました。

このことがきっかけで王羲之のストレスは頂点に達し、惜しげもなく会稽内史から退くのでした

会稽内史を務めたのは4年間でした。そんな苦闘の日々の中で蘭亭序を書いたんですね。

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