欧陽詢は楷書に優れていた書家として有名です。
今回は、欧陽詢について解説していきます。
欧陽詢の基本情報
欧陽詢(557~641)は、字(別名)は信本。
南朝・陳の時代、永定元年(557)に潭州臨湘(湖南省臨湘市)で生まれました。
欧陽詢が活躍した唐代は楷書が完成の域に達した絶頂期です。
虞世南・褚遂良とともに「初唐の三大家」と呼ばれています。
欧陽詢の有名な碑文として、
楷書には九成宮醴泉銘・化度寺邕禅師塔銘・皇甫誕碑・温彦博碑、
隷書には房彦謙碑・宗聖観碑があります。
欧陽詢の人生
欧陽詢がまだ幼なかった時期に、父の紇は陳の広州刺史(地方を監督するための監察官)でしたが、謀反の兵を挙げ、その罪で死刑になってしまいます。本来なら息子である詢も連座して罪に従うべきところをからくも免れ、父の友人・江総に育てられました。
彼の青年時代は隋王朝(581~618)が栄えたころにあたり、隋が滅びるときにはすでに61歳の高齢になっていました。
隋から唐王朝(618~907)に代わると、唐の初代皇帝・李淵に仕えて、貞観15年(641)に85歳で亡くなりました。
官僚としての欧陽詢
性格は人並みずれて聡明で学問にもすぐれ、経書や史籍を多く読み、優秀な官吏(官僚)でした。
隋では煬帝に仕えて太常博士(儀礼官)となり、かつ、李淵(唐の初代皇帝)と親交があったため、王朝が隋から唐に代わると、唐に仕えて重用されました。
唐の初代皇帝・李淵が即位すると給事中(皇帝の側近)となり(このときすでに61歳)、勅撰の『藝文類聚』100巻の編集にもあたりました。
太宗(唐の第2代皇帝)が即位すると、国家の発展のために書による文化政策が行われます。欧陽詢は大子率更命 (皇太子養育係) となり、弘文館学土も兼ねて虞世南とともに書法の指導にあたりました。
唐の文化国家建設の第一歩は書によってはじめられ、欧陽詢と虞世南の2人はその最高の責任者だったのです。
欧陽詢の書風
欧陽詢の書は険勁(勁く硬い美しさ)と評価されており、南朝の王羲之の書を学び、北朝の書法(造像記など)を合わせ発展させたと考えられています。
書の特徴は、時代や王朝の中心が南にあるか北にあるかによって変化するため、表にして紹介します。
南側の特徴は「自然でうつくしい」、北側の特徴は「力強い」と考えてもらってよいでしょう。
それでは、欧陽詢が学んだとされる南朝の王羲之の書、北朝の書法(造像記など)を分けて解説していきます。
欧陽詢は王羲之をの書を学んでいた
欧陽詢は、「蘭亭序」を書いた人として有名な王羲之の書を学んでいたと考えられています。
その証拠に、唐の竇蒙という人の『述書賦』に、「欧陽詢は北斉の劉珉から書を学んだ」と書かれています。
この劉珉という人は、北斉(北朝)の時代において、南朝の王羲之の書風が尊重されなくなってきたのを復興させたといわれている人物です。
このことから、欧陽詢は本来王羲之の伝統を受け継いだ人で、そのうえに隋・唐時代の新しい書風をうちたてたといえます。
また、明代の王世貞が、「書法は欧陽詢が出てはじめて晋体(王羲之の書法)を変じた」と言っています。王羲之の書法が尊重されだすのは唐代からなのですが、その唐代において王羲之の書法が尊重されるのは欧陽詢によるものだというのです。
さらに清代になって王澍という人がまた唐代の書家を批評して、「虞世南は王羲之の円をえた、欧陽詢は王羲之の卓をえた、褚遂良は王羲之の超をえた」といい、初唐の三大家3人とも王羲之の血脈をうけたものであるといって、王羲之の伝統を受けていることを認めています。
欧陽詢は北朝の書法(造像記など)を学んだ
欧陽詢の若いころは隋王朝の書にたくさん触れてきました。
隋の前は北魏の時代です。北魏と言えば、「牛橛造像記」や「始平公造像記」など造像記が有名ですよね。
そのため隋代においてもとくに楷書が盛んで、造像記ほど力強さはありませんが、おさえめな美しく鋭い楷書が特徴的です。
欧陽詢の若いころ青年から中年のころは、このような楷書に触れていたことでしょう。