王羲之の真跡は残念ながら1つも伝わっておらず、現在見られるすべての法帖が複製品です。そんな中、最も真跡に近い複製品とされるものの代表作が「姨母帖」と「喪乱帖」です。
「姨母帖」は20歳代の若いころの作品であり、「喪乱帖」は晩年の作品です。
姨母帖と喪乱帖について紹介していきます。
姨母帖(いぼじょう)について
姨母帖は、『万歳通天進帖』という巻の冒頭にあります。
姨母すなわち王羲之の父・王曠の妻の姉妹にあたる人の死を悼んだ手紙です。
姨母帖の特徴としては、書き出しや行頭の字が大きく、行末の字が小さくなります。この傾向は、同じ時期の「李柏文書」や「楼蘭残紙」などにもみられ、4世紀なかごろの特徴の1つです。
万歳通天進帖について
『万歳通天進帖』は紙本で、26.7×260.4㎝。首尾完備した書状です。
なお、原跡の方は伝承されておらず、この複製本はこれまでに2回の火災に見舞われ、現在でも火災の痕跡がはっきりと残っています。現在、遼寧省博物館に収蔵されています。
この複製本がつくられたきっかけは、唐の万歳通天2年(697)、武則天(中国史上唯一の女帝)が王羲之一族の子孫である王方慶に王羲之の筆跡を求めました。
そこで王方慶は、「私の祖先の王羲之の書はもともと40余りあったが、貞観12年(638)太宗に献上してしまって、ただ1巻残っているだけです。いまこれを献上します。そのほかに王家歴代の導、洽、珣、曇首、僧綽、仲宝、騫、規、規、褒、および献之以下28人の書すべて10巻にして献上します」としました。
武則天はこれら王一族28人の筆跡複製させて、その複製本を宮中にとどめ、原跡の方は王方慶に返しました。
現在、王羲之、王荟、王徽之、王献之、王僧虔、王慈、王志の7人の筆跡10部しか残っていません。
喪乱帖(そうらんじょう)について
喪乱帖は、早くに中国から日本に持ち込まれ、奈良時代、756年の「東大寺献物帳」に記されているものと考えられています。明治時代には皇室に献上され、現在は三の丸尚蔵館に収蔵されています。
この「喪乱帖」という名前は1行目の「喪乱之極」からつけられているのですが、実は3通の書状の総称です。前半の8行が「喪乱帖」、つづいて5行分が「二謝帖」、最後4行分を「得示帖」といいます。
原跡の書写年代について、故西川寧博士が筆遣いや字形をたどって、永和12年(356)と推定され、王羲之晩年のころの作品とされています。
姨母帖にくらべて、喪乱帖は行頭から行末まで同じ大きさの文字で書かれています。これは王羲之の息子の王献之など次の世代の書にみる傾向です。
大きさは28.7×63㎝。