日本の書道の歴史は、中国の書道の流れが、その王朝の変化とともに影響を及ぼしています。
日本の書道の大部分は、中国の影響を受けているといっていいでしょう。
ただ、平安時代の後期になって、かな書道が生まれてから、日本特有の「和様の書」が成立して、それからあとは和様と中国書道とが両立して歴史が進んでいくこととなりました。したがって、日本の書道の歴史は、和様と、中国書道(唐様)の2つの系統にわけて考える必要があります。
日本特有の「和様の書」も、もともとは中国の書道から変化したものなので、日本の書道は中国文化とよく結びついているといえます。
今回は、日本の歴史にしたがって、日本の書道が中国書道によってどのように変化してきたのかを紹介します。
日本の書道のなかにある中国的な要素をとりあげ、どのようにして日本的なものへと変化していったか、それによって日本の書道が中国の書道にくらべてどのように違っているのかを紹介します。
古墳時代の百済書道
日本で本格的に文字が使われだしたのは、今からおよそ1500年前の古墳時代です。
百済(古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家)の阿直岐・王仁が日本へやって来て、中国の文物、制度を伝えたところから始まります。
中国の書道は、3000年の長い歴史をもっているため、日本にはすでに完成した文字が入ってきました。
古墳時代の文字が書かれた遺品はとても少なく、わずかに「江田古墳大刀銘」(438年ごろ)と「稲荷山古墳鉄剣銘」(471年)と「隅田八幡鏡銘」(443年または503年ごろ)が伝えられているくらいです。
そこに書かれている文字は、素朴な楷書体で、まだうつくしい文字をつくるという意識で書かれたものではないようです。
この時代の遺品はほとんどなく、実際にどのような文字が書かれていたのかを知ることはできませんが、おそらく文字が日本に伝えられてから、それが熟練して美しい書道となるまでには、かなりの年月が必要とされたと考えられます。
飛鳥時代の隋・唐書道
飛鳥時代(593~710)は、遣隋使・遣唐使が派遣されるようになり、中国との交流が多くなってきます。
推古15、16年(607、608)、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し、留学生や学問僧らが渡航し、日本に帰る際には多くの中国文化を持ち帰りました。
618年、隋王朝は滅亡し、次に唐王朝が国を建てます。引き続き遣唐使が派遣されます。大化2年(646)には中大兄皇子、藤原鎌足らによって唐の制度を模範として政治上の大改革が行われました。いわゆる「大化の改新」です。
書道においても、隋・唐の書道の流行が日本にも影響をもたらしました。隋・唐時代の書跡の遺品として有名なのが、墓誌、造像記などの石に刻った楷書です。
なかでも法隆寺の
「金堂薬師如来像光背銘」(推古15年、607ごろ)
「金堂釈迦三尊像光背銘」(推古31年、623)
「小釈迦造像銘」(推古36年、628)
の3つの造像銘はもっとも代表的なものです。これらの書風は隋・唐時代の鋭く角ばった楷書にとてもよく似ています。
飛鳥時代は、仏教の興隆にともなって、書道の方面においても、隋・唐のころの楷書に熟達した人が日本にも多くあらわれてきたと考えられます。ただ、まだ日本の独創的な書風を見ることはできません。いわば、「模倣時代」といえるでしょう。
奈良時代の晋・唐書道
奈良時代(710~794)になると、遣唐使が頻繁に派遣され、中国唐の文化が日本の政治社会や文芸などにもっとも影響をあたえました。
書道においては、唐時代は王羲之がとても尊重されていた時代でした。“行書は王羲之”、”楷書は欧陽詢、褚遂良、虞世南”の書風を学ぶ人が多かった時代です。
当時日本の書道においても、唐時代に流行した書風(王羲之風)が影響をあたえていました。
その遺品としては、「正倉院宝物」のなかに残っている多くの書跡が挙げられます。
正倉院宝物にある書跡は、王羲之を尊重した書風
正倉院宝物のなかには、中国の書道によって影響をうけた日本の書跡がおおく残されています。
- 聖武天皇が隋・唐時代の詩文140あまりを書写された「宸翰雑集」
- 光明皇后が王羲之の「楽毅論」を臨書されたもの(天平16、744)
- おなじく光明皇后が隋の杜正蔵の書簡の模範文を書写された「杜家立成雑書要略」
などがあります。どれも唐時代に流行した王羲之を尊重した書風です。
また、「東大寺献物帳」は、聖武天皇の宝物を東大寺に奉献した目録なのですが、ここからほかにも多くの名跡があったことがわかります。
とくに5通あるうちの1通「大小王真跡帳」は、大王と小王すなわち王羲之とその息子王献之の真跡を奉納するときの目録です。
王羲之の筆跡が尊重されていたことがうかがえます。
正倉院宝物のかずかずの書物から、奈良時代は唐時代の書風、つまり王羲之の書風が尊重されていたことがわかります。
平安時代
平安時代は、引き続き中国の唐と交流が行われる前期(794~897)と、日本独自の和様(仮名書道)が誕生する後期(897~1185)にわけてみることができます。
平安時代前期、「空海」の活躍
平安時代前期(794~897)は引き続き中国、唐との交流がおこなわれ、遣唐使も寛平6年(894)までは継続しています。
この時期に唐に渡った有名な人物として、空海がいます。空海は真言宗の開祖として有名ですよね。
空海は若いころから書道に関心があり、このころすでに日本に流通していた王羲之の書風をよく身に着けていました。唐に渡った際にもそこで書道を学び、そこで見つけた数々の名跡を日本に持ち帰ってきました。
中国から帰ってきた空海の書風は、後世脈々と受け継がれていく日本の書流の源流となりました。
平安時代後期の和様の流行
平安時代後期(897~1185)になると、中国では唐王朝が衰退するとともに、唐の書道は日本にはほとんど入ってこなくなりました。
唐はやがて滅亡して(907)、五代十国の乱離をへて、やがて宋王朝となりました(960)。
このころには、日本独自の「和様の書」が完成しており、平安時代前期に流行していた唐の王羲之の書風は次第に影が薄れいきます。
こうして平安時代末期に至るまでは和様書道の全盛期となっていきました。
和様には漢字と仮名がありますが、日本のもっとも独特なものとすれば、この時代の仮名が挙げられます。
仮名は日本の風土や国民性にふさわしいものとして、中国の漢字に対してとてもわかりやすい対称をなしています。
和様における漢字も、中国の書風そのままではなく、やわらかく円味を帯び、豊満に穏和に行書で書かれます。
日本の書道芸術のすがたは、漢字は行書、仮名は草書とひらがなに見られるように、やわらかく優美な点が特徴です。
鎌倉時代の宋書道
鎌倉時代は、中国の宋王朝の滅亡(1279)を境として前期(1185~1279)と後期(1279~1392)にわけてみることができます。
鎌倉時代の文化の性質は、公家文化から武家文化へと切り替えられていきます。公家文化の優雅なやさしいうつくしさが、武家文化の剛健な力強さへと変わっていきます。
鎌倉前期の宋書道
鎌倉時代前期は、平安時代末期のころにはあまり行われていなかった中国との交流がふたたび回復して、宋王朝との往来が活発になりました。
とくに日本の禅宗の僧侶(禅僧)が宋へ渡り、当時流行していた書風を日本へ持ち帰ってきました。
- 明庵栄西…京都建仁寺を開創したことで知られる明庵栄西は、平安末期仁安3年(1168)と鎌倉初期文治3年(1187)の2回中国・宋に渡ります。
- 俊芿…泉涌寺を開創した俊芿は、正治元年(1199)に宋に渡り、「法帖碑文」76巻を日本に持ち帰っています。
- 道元…永平寺を開創し、曹洞禅の開祖と仰がれている道元は、貞応2年(1223)に宋に渡ります。
この3人の僧侶の筆跡は、どれも中国宋時代に活躍した黄庭堅の書風をなしています。鎌倉時代の前期は、当時中国で流行していた黄庭堅の書風が日本にも流れ込んできたのです。
禅宗の僧侶だけにとどまらず、公家の花園天皇、後醍醐天皇なども宋の書風を習い、仮名を代表とした「和様の書」から剛健な力強い書風へと変化していきました。
日本ではこういった禅僧の筆跡を「墨蹟」と呼び、室町時代以降は茶の湯の際に鑑賞されてその価値を高めていきました。これは中国の書道文化にはみられない点です。
鎌倉後期の南北朝の元書道
鎌倉時代後期は、南北朝の中間、元王朝(1279~1368)の滅亡のころにかけて、中国へ渡る禅僧がとても多く、彼らは新しい元時代に流行した趙孟頫の書風を学びました。
趙孟頫の書風は、王羲之を尊重しながらとても整った行書です。
永源寺を開創した寂室元光もその1人です。彼は元応2年(1320)に元に渡り、現存している書跡も趙孟頫の書風で書かれています。
当時元王朝の禅僧には、古林清茂、月江正印、了庵清欲、楚石梵琦などという人がおり、みんな趙孟頫を学んでいました。
こういった元の禅僧らの書風が、日本の禅僧たちに影響を与えたと考えられます。
このようにして、日本の禅僧の筆跡「墨蹟」は、鎌倉時代前期にやしなわれた力強さのうえに、さらに技法の面において磨きをかけました。
室町時代の明書道
室町時代(1336~1573)は、中国の元が滅亡してから書道が衰退した時期で、見るべきものは少ないですが、前の鎌倉時代から引き続いて中国との交流があったことから、明王朝の影響を受けています。
明時代の書風は、趣味的な趣があり、前の宋・元時代のような、威風堂々とした風格のものはみられなくなります。
一方、この時代の和様は、「世尊寺流」が主流となり、そこから派生した青蓮院流が一風をなし、後の「御家流」の基礎を築きました。しかし、禅宗の墨跡の勢力には及ばず、後には世尊時流のあとつぎが絶えて、持明院基春に引き継がれて「持明院流」として行われていきました。
江戸時代
これまではおもに禅僧によって「墨跡」として書道が行われてきました。
一方で、江戸時代(1603~1867)では、広く学者から一般の人々まで趣味的なものとして書道が行われました。
その書風は、当時鎖国をしていたため長崎を入り口として、晋・唐・元・明時代の名家の書跡、とくに元の趙孟頫・明の祝允明・文徴明・董其昌の4人は圧倒的に多く、その流布にともなって中国の書風が流行しました。
その間に、2つの傾向がありました。江戸(関東)と京都(関西)の地域ごとにもとめる書風がちがったのです。
江戸では、市河米庵を中心として、中国明・清時代の新しい書風をもとめました。
京都では、貫名菘翁を中心として、中国晋・唐時代の伝統的な書風をもとめました。
和様においては、さまざまな書流が栄えましたが、そのなかでも一般の教養には青蓮院流、いわゆる御家流とよばれる実用的な和様が広く社会に浸透しました。
明治・大正時代の北碑派書道
すでに解説しましたが、日本の書道は、和様と唐様の2つにわけて考えることができます。
明治時代の書道は、この時代における政治をになっていく開拓者たちのほとんどすべてが、漢学の素養のある人たちであったことから、どちらかといえば唐様に傾いていました。
江戸時代では和様の書風で書かれていた公文書がすたれて、唐様の書風の公文書ができたり、唐様の漢字とカタカナの組み合わせによる書写形式が定められたりしたのもその表れです。
中国から日本にはじめて碑版法帖をもたらし、日本で碑学派が誕生するきっかけとなった人物として楊守敬がいます。
楊守敬は明治13年(1880)に来日し、4年間在留しました。外交官としてやってきましたが、碑版法帖の収蔵と鑑識にも専門的な見識を持っていました。その著述には、「激素飛青閣平碑記」「平帖記」「学書邇言」「望堂金石文学」「楷法溯源」などがあり、書道についても一流の学者でした。
その日本に持ってきた多くの碑版法帖のなかには、当時の日本としては珍しい北碑のものがありました。これまで北碑関係のものはほとんど知られていなかった時代だけに、はじめてそれらが紹介されたことは日本の書道界に大きな衝撃を与えました。
楊守敬にならった人物の1人として、日下部鳴鶴がいます。彼は日本の碑学派の源流に位置する人物です。現在の書道家でも、習った先生をさかのぼっていくと日下部鳴鶴にたどり着く方も多くいます。
これまでの日本の書道は草書から得た仮名を主体としていることから、篆書・隷書や北朝のゴツゴツとした楷書には親しまれにくいとされてきました。
明治時代に入って、中国清からやってきた碑学派を通して、はじめて篆書・隷書や北朝の楷書が日本にも広がっていきました。この点が、明治時代のもっともおおきな特徴です。
書道が教養とは別枠になる
もともと書道は1つの教科だった
明治時代に書道を行っていたのは、漢学者でした。
子どもたちに読み、書き、計算を教えることが教育科目であり、書道は漢文を読むことと並行して行われました。
学校教育においても、明治時代の初年には句読教師、筆道教師、算術教師という名前の3種類の教官が小学校で教えていました。私塾を開いている学者の多くは、四書(論語、大学、中庸、孟子)とか十八史略のような古典で漢文を教えあわせて手習いを教えるというのが普通の形式で、手習いだけを教えることはありませんでした。
学問を修め、人格を錬磨することを目的とし、手習いは1科目にすぎないというように考えられていました。
書道が専門化する
明治時代の書道を支えていた漢学も、日清戦争をきっかけとして、しだいに新しい西洋の学問に切り替えられていきました。
やがて漢学は、文人の詩・書・画を楽しむことから、大学で学ぶような学問となり、書道も学問とは分けて行われるようになってきました。
これまでの漢学者は、五経(易経、詩経、書経、礼記、春秋)に精通し、左国史漢の経典を熟読することに努め、かたわら詩文を作り書・画・篆刻のたしなみも欠かしませんでした。
明治時代に入ってからも、そういった形式の漢学者も多くいましたが、西洋の学問が取り入れられていくとともに、詩・書・画をたしなむ風雅な学者は減っていきました。
学問を追求する人は、必ずしも書道に関心を持たなくてもよくなり、また書道をする人は学問に関心を持たなくても芸術作品制作に精進すればよくなりました。
学者と書道家、学問と書道は分けて考えられる傾向がでてきました。
まとめ
今回は、日本の書道の歴史を順番に紹介してきました。
どの時代も中国の影響によって書風が変化していったことがわかるかと思います。平安時代後期に交流が一旦途絶えたことによって仮名書道が生まれますが、次の鎌倉時代にはまたその時代の中国風が流行しました。
また、このような書道の歴史や鑑賞を研究する学問的な視点は、明治時代末から大正時代にかけての間にうまれました。これと同時に和様においても古筆研究が進められました。
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