欧陽詢が「初唐の三大家」の1人であり、楷書の典型の確立に大きく関係していることは有名な話です。
今回紹介する欧陽通は、そんな欧陽詢の息子で、彼も書道を得意としたことで有名です。
欧陽通(おうようとう)の基本情報
欧陽通(?~691年〈天授2年〉)は、欧陽詢の第4子で、字は通師、潭州臨湘(湖南省)の人です。
正史によると、彼には長卿・粛・倫の3人の兄があり、次男の粛も書道が得意だったそうです。
通は、幼年のころ父を亡くしたので、父親から直接書道の指導を受ける機会にめぐまれませんでした。
しかし、母の徐氏が通に父の書跡を教え、あるときはお小遣いをあたえて市場に父の筆跡を買いに行かせました。
父の書名に恥じないようにと心を砕き、通もまた昼夜を分かたず精進したので、ついに父を名前を斉しくし、父は大欧陽、通は小欧陽と呼ばれるようになりました。
欧陽通の生涯
欧陽通は679年(儀鳳4年)中書舎人に累進し、垂拱中(685~688)殿中監に至り、渤海子を賜りました。
690年(天授元年)夏官尚書、翌年691年に司礼卿・判納言事の要職にあり、宰相(総理大臣)の列に加わりましたが、たまたま鳳閣舎人の張嘉福らが則天武后の姪である武承嗣を皇太子に立てようとしたとき、岑長倩とともに断固としてこれに反対したため、彼らの憎しみを買い、やがて岑長倩が大逆に坐して亡くなったあと、通もまた酷吏の来俊臣に目をつけられ殺されてしまいました。
初唐の張文成『朝野僉載』に、
「唐欧陽通、詢子、善書、瘦怯於父。常自矜能書。必以象牙犀角為管、狸毛為心、覆以秋兎毫、松煙為墨、末以麝香、紙必須堅薄白滑書。蓋自重其書也」
という記事があります。
欧陽通は父親の書法を学び、父より瘦怯とも峻嶮これに過ぐとも評価されていますが、これは細身な作りと慎重な下筆とを指すものでしょう。
当時、世に重んぜられ、またみずからも自分の書を重んじ、軽々しくは筆をとらなかったようです。
また、用具の選択についても、かなり神経質で、工夫を労していたことが察せられます。
欧陽通の書道作品
現在みられる欧陽通が書いた石碑は、道因法師碑(663年)と泉男生墓誌銘(679年)の2つがあります。
欧陽通が生まれた年はわかっていませんが、父の詢が641年(貞観15年)85歳で亡くなったとき仮に10~15歳だったとすると、道因法師碑は32~37歳、泉男生墓誌銘は48~53歳のときに書いたことになります。
道因法師碑()
道因法師碑は、道因法師の功績を称える文章が書かれています。
道因法師はとくに、西遊記でおなじみの玄奘法師が行った経典の翻訳に協力し、玄奘は道因の学識に頼ったといいます。
石碑は全高3.02m、幅1.32m、厚さ約28㎝。
題額は横1行に楷書で「故大徳因法師碑」の7文字が陰刻され、碑文は34行、毎行73字に陰刻されています。
文章の内容を考えた撰文者は、中台司藩大夫であった隴西の李儼(字は仲思)、
文字を書いた欧陽通は、このとき奉義郞、行蘭台郎、渤海県開国男、騎都尉でした。
泉男生墓誌銘()
泉男生墓誌銘は、泉男生の功績を称える文章が書かれています。
泉男生は、若くして高位に就き、28歳で三軍大将軍を任され、46歳で病死するまで大将軍としてのキャリアを積みました。
墓誌は墓室中にあり、雨風にさらされることがなかったので、1字の欠損もなく、完整に保護されています。
文章の内容を考えた撰文者は、中書侍郎兼検校相王府司馬の王特真。
書者は欧陽通です。調露元年(679)12月の年紀があり、当時の官職は朝議大夫、行司勲郎中、上騎都尉、渤海県開国男でした。
書道が上手になりたい!扱いやすい書道筆をお探しの方へ
書道をやっているけど、
「お手本のようになかなか上手に書けない…」
「筆が思うように動いてくれない…」
という方のために、美しさ・使いやすさが追求された書道筆「小春」を紹介します。
この筆は、毛の長さがちょうど良く、穂の中心部分にかための毛が採用されているため、弾力がでてしっかりとした線が書けます。穂の外側は柔毛のため線の輪郭もきれいです。
半紙4~6文字に適しています。
Amazonで気軽に購入できるので、一度試してみてはいかがでしょうか。
当メディア「SHODO FAM」では、
書道についての歴史や作品、美学などを紹介しています。
書道についてのさまざまな専門書をもとに、確実で信頼性の高い情報をお届けしています。
書道についての調べものの際にはぜひご活用ください。