康有為が著した書論『広芸舟双楫』は、碑学尊重の書論で、日本においても碑学派が流行するにあたって翻訳され、大きな影響をあたえました。
今回は、『広芸舟双楫』を著した康有為という人物について解説します。
康有為(こうゆうい)について解説
康有為は、中国清時代末に活躍した政治家・思想家・詩人・古典学者です。
書道家としても活動し、書論の名著ものこしています。
1858年(咸豊8年)3月19日、広東省南海県銀塘郷(現在の広州市に隣接する)に生まれました。
原名は祖詒、字は広廈、雅号は長素、更生、天游化人など。出身地の南海にちなんで康南海とも呼ばれます。
読書人の家系に生まれ、高祖の康文嬥、祖父の康賛修はともに挙人、父の康達初も江西の知県をつとめました。
また従叔祖の康国器は、江西巡撫として太平天国軍の鎮圧に功をあげた人物です。
主な著書に、改革思想の理論的根拠をなす『新学偽経考』『孔子改制考』、万物一体のユートピアを説いた『大同書』、清朝碑学の最後を飾る名著『広芸舟双楫』があります。
康有為の人生、経歴
高級官僚をめざす
康有為の幼少期は、5歳で唐詩を暗唱し、6歳から経書を学びました。
1876年(光緒2年)19歳のときには科挙(官僚登用試験)を受験するために、郷里の大学者で祖父の友人でもあった朱次琦の礼山草堂に入門、経学、文学などを修めました。
しかし、3年後には師の学説に不満をおぼえ、西樵山白雲洞にこもって仏教や道教に親しむ生活をおくりました。
一方、翻訳書を通して西洋の学術や政治にも関心を抱き、20代後半には、内憂外患の当時の時局に憤りをおぼえ、国の救済を真剣に考えるようになりました。
1888年(光緒14年)31歳のとき、科挙の一段階目の郷試を受験するため北京にいた彼は、緒生の資格しかなかったにもかかわらず、政治改革を求める大胆な変法案を光緒帝に提出しました。
この変法案は保守派の官僚に阻止されて皇帝にはとどきませんでしたが、その主張は一部高官の共感を得ることになりました。
この変法案に代表される果敢な政治活動をする彼に対して、
「国事を言いう勿れ、宜しく金石を以て陶遣(楽しんで気ばらしする)すべし」(『康南海自編年譜』)
と、勧告をあたえた先輩がいます。進士で、彼の8歳年上にあたる沈曾植(1850~1922)です。
政治改革への執念と挫折
康有為はその後、広州にもどって 万木草堂という学舎を開き、欧米の学術を盛り込んだ新方式の講学を行いました。
かの梁啓超(1873~1927)はこの時以来の門下生です。
彼の学問は、「通経致用」すなわち、経典の研究は政治的社会的実践を直結しなければならない、という主張をもつ公羊学派でした。
1893年(光緒19年)挙人の資格を得、2年後の1895年(光緒21年)には会試に合格して進士に及第しました。
この年のはじめには、「公車上書」とよばれる1200人もの挙人の書名をあつめた案を提出しています。これは日清戦争後の和議拒否をはじめ、天下の根本を定めるための遷都、および変法による政治改革を要請したものでした。これもまた要路の官僚に阻まれて光緒帝には届かなかったようです。
1898年(光緒19年)41歳 の「戊戌」の年は、彼自身にとっても、また清末の政界にとっても、重大な事件が起きた年です。
当時、清王朝内部においては変法運動に加担する官僚たちがひとつの勢力を得、光緒帝みずからの考えもこの方向に傾いていました。
ついにこの年の正月に提出した「統筹全局疏」(全局面を総合的に規画するための改革案)が、時の軍機大臣・翁堂龢の勧めにより、光緒帝に採択されます。そして、総理衙門章京の官に任命された彼の指導のもとに、変法にもとづく諸改革が実施されることになりました。
しかし、そのあまりに急激だった内政改革は守旧派の猛反発をうけ、西太后一派のクーデターで幕を下ろします。
これが有名な「戊戌の政変」です。
康有為はこの年の秋、イギリス人宣教師の救援を得て、イギリス艦で上海にのがれ、香港経由で日本に亡命しました。
日本に亡命した康有為は、その後東南アジア・インド・ヨーロッパ・北アメリカなどを転々とし、辛亥革命後の1913年(民国2年)亡くなった母の喪に服するために15年ぶりに帰国しました。
晩年
晩年はおもに上海におり、儒教を国教とするための運動をおこし、清王朝復興のために暗躍しましたが、いづれも失敗におわっています。
1927年(民国16年)年3月31日、その波乱に満ちた生涯を70歳で終えます。
山東省青島の寓居で亡くなり、墓は青島氏李村の象耳山にあります。
康有為の作品・書学歴
康有為の若年期に学んだ古典については、『広芸舟双楫』の中で彼自身が述べています。
それによると、彼の学書は王羲之の「楽毅論」や欧陽詢、趙孟頫の書にはじまり、つぎに孫過庭の「書譜」や「淳化閣帖」に及んだらしいです。
つまり、純然たる帖学書法によって出発したことが確認されます。
しかし、康有為は碑学派の書道家として有名です。
1882年(光緒24年)25歳のとき国士監で「石鼓文」の実物をみたり、そのほか鄧石如の篆書や漢・魏・六朝の碑版を入手し、沈曾植の説や、張裕釗の書をみたりするなどして、北碑の筆法を悟り、秦・漢の篆隷の神髄を融合する書を理想とするようになりました。
筆を引き回すように書く覇気の強い楷行草は、極めて特異ですが、その境地は理論ほどには到達していません。
名著『広芸舟双楫』
康有為は、32歳のときに『広芸舟双楫』を著しました。
1888年の変法案の提出後、沈曾植の忠告を聞き入れ、一時的に政治活動をひかえる生活を選びました。
金石に親しみ、その12月、北京滞在時の宿舎・南海会館の汗漫舫と名づけた一室において執筆し、翌年郷里で脱稿しました。
その内容は、包世臣の『芸舟双楫』を補強し、南朝の碑は北朝の碑に劣らないと説くなど、南北朝の書法を啓蒙した功績は大きいですが、唐碑を排する論や書体変遷論には偏見も少なくありません。
また、「書学は政治と変化のあり方がほぼ同じで」「守旧・開化の二党があるが、時代は開化を尊ぶため、守旧党はおおむね滅ぼされる」と説くなど、その書学には政治改革思想が色濃く反映されています。
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参考文献:『中国近代の書人たち』中村伸夫、『書の文化史 下』西林昭一