本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)を紹介
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、書・陶芸・漆芸・能楽・茶の湯などに携り、後世の日本文化に大きな影響を与えた人物として有名です。
永禄元年~寛永14年(1558~1637)光二の子。京都の生まれ。初名を二郎三郎とい、のち光悦と改名、雅号は徳有斎・太虚庵など。
本阿弥家の家業は、刀剣の鑑定(めきき)・研磨(とぎ)・浄拭(ぬぐい)でした。
もともと本阿弥の家は、遠く足利尊氏の刀奉行を務めた妙本を始祖とする家柄で、当時、京の町においても屈指の裕福な町衆の1人でした。
近衛信尹・松花堂昭乗とともに「平安(京都)の三筆」とか「洛下(京都)の三筆」といわれ、また今日では「寛永の三筆」といわれています。
7,8歳のころから四書(論語・孟子・大学・中庸)・五経(詩経・書経・易経・春秋・礼記)の素読を習ったり、講釈を聞いたり、また和歌を学び、さらに家業を学びました。
室町時代以来、青蓮院流は広く流行し、もっとも尊重されていたので、光悦も1595年(文禄4年)38歳のとき、青蓮院門跡の尊朝法親王から青蓮院流の伝授を受けました。
1615年(元和元年)58歳のとき、徳川家康から光悦は京都の北郊の鷹ケ峯の地を与えられ、晩年の20年余りは一家一門および職人とともにこの地に住んでいました。
1625年(寛永2年)68歳のとき江戸に下っていた光悦の甥の光室が亡くなり、光悦は光室の後見人になっていたので江戸に下りました。その際に江戸城で将軍徳川家光に会い、光悦が書いた色紙を献上しました。家光からは光悦に時服および銀子が贈られました。その後、光悦はすぐに江戸をたって下総国(千葉県)の中山の法華経寺に参拝し、まもなく帰京しました。
光悦は寛永(1624~1643)になって、ますます書道家として活躍し、和歌巻・詩歌巻・色紙・短冊などをたくさん書きました。
光悦の家業は刀剣の目利き・研ぎ・拭きでしたが、慶長の中ごろには能書として有名になり、また光悦の書跡は多くの人に愛好されたので、揮毫の依頼は絶えることがなかったようです。
光悦は家業の収入がかなりあり、裕福であったので、書作品には華麗な料紙を用いました。光悦の書跡のうち『千載集』や『新古今集』など古歌を書写した料紙の下絵は、当時の倭絵の画家のうちでもっともすぐれていた俵屋宗達が描いたといわれています。