日本の書家

鳥丸光広(からすまるみつひろ)を紹介

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鳥丸光広(からすまるみつひろ)を紹介

鳥丸光広作:聚楽第行幸和歌巻
鳥丸光広作:聚楽第行幸和歌巻 晩年の烏丸光広が、和歌を揮毫(きごう)したもの。筆運びに彼独自のリズム感を発揮しており、奔放かつ自在な筆致が見どころの1つ。

鳥丸光広(からすまるみつひろ)
天正7年~寛永15年(1579~1638)、准大臣光宣みつのぶの子。3歳のとき従五位下になり、5歳え元服して侍従になり、11歳のとき右少弁になりました。

1606年(慶長11年)28歳のとき参議になりました。

31歳のとき勅勘ちょっかんをこうむって解官されましたが、徳川家康のとりなしで流罪を免れました。

慶長17年勅勘を許され、参議に復帰し、1616年(元和2年)38歳のとき権大納言になり正二位になりました。

漢籍は清原きよはら船橋ふなばし秀賢ひでかたに学び、和歌は細川幽斎ほそかわゆうさいに学びました。とくに和歌に熱心であったので古今伝授こきんでんじゅを受けました。家集に『黄葉和歌集こうようわかしゅう』があります。

鳥丸光広にまつわる伝説

寛永(1624~1643)のころに江戸へ下る際、駿河国(静岡県)の三島で暴風雨にあいました。
光広が三島明神に和歌を献じると、暴風雨がやみ、箱根山を無事に越えることができました。

江戸から帰京する途中、浜松で宿屋に泊まろうとしたところ、どの宿屋も病人ばかりで泊まることができません。光広が疫鬼をはらうといって和歌をよみ、紙に書いてそれを門戸にはると、疫鬼が退散したので病人が起きることができました。

雨が降るのを祈ったり、雨がやむのを祈ったりして不思議な効きめがあったといわれています。

書道家としての鳥丸光広

鳥丸光広作:東行記 光広独自の書風を確立した晩年の筆跡。

歌人としてすぐれていた光広は能書をしてもすぐれていました。

光広の書は自由に早く書かれ、変化がおおいです。

また、古筆の鑑識に長じ、光広が奥書をかいた古筆はたくさんあります。
古筆了佐こひつりょうさは光広に古筆の鑑定を学んだといわれています。

光広の真跡には俵屋宗達の「つた細道屏風ほそみちびょうぶ」や「西行法師行状絵詞さいぎょうほうしぎょうじょうえことば」の、賛の和歌や詞があります。

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