北島雪山(きたじませつざん)を紹介
北島雪山(きたじませつざん)は江戸時代前期に活躍した書道家で、日本において唐様(中国風)の書風の基礎を築いたことで注目されます。
生没は江戸時代の1636~1697(寛永13年~元禄10年)、肥後国(熊本県)の人。医を業とした北島宗宅の子。
名は三立、雪山は雅号です。
幼少のころ図南堂日収について書法を学びました。
20歳ごろ医術を修める目的で父にしたがって兄の江庵とともに長崎へ行き、長崎で渡来中国人の独立・即非および愈立徳に書法を学びました。独立は医術・詩・書・篆刻に長けていました。即非は詩・文・書画をよくし、隠元・木庵とともに「黄檗の三筆」といわれています。愈立徳は明の文徴明の書法を習得した人といわれ、渡来僧の雪機に書法を学んだともいわれています。
雪山は寛文のはじめに長崎で陽明学を修め、熊本の細井家に仕えて食禄三百石を給せられましたが、寛文9年(1669)34歳のとき、陽明学を修めた者が罷免され、雪山も罷免されました。
1677年(延宝5年)雪山は江戸に移り、書道家として有名になりました。
その門人に細井広沢らがいます。細井光沢は雪山に文徴明の筆法を学んでいます。雪山は、王羲之の筆法の正脈を伝えているのは元の趙孟頫と明の文徴明の2人だけであり、趙孟頫・文徴明の筆法を学ぶことを広沢に教えました。
王羲之の真跡は残っていないし、墨本の法帖は翻刻を重ねているため筆意がわからなくなっているので、趙孟頫・文徴明の真跡を学ぶべきであるといいました。
晩年には長崎へ帰っています。
書道家としての逸話
雪山はつねに貧しかったので、家の屋根がこわれて雨漏りをしていても、それを修理するお金がなく、壁の高いたらいをつくり、その下に座って書道を学んだといいます。
あるとき長崎の橋下で一夜をあかし、翌朝付近の酒家にはいって酒を求めました。酒家の主人が代金を請求しますが、雪山は無いといいました。家はどこかとたずねても雪山は無いと返事をするので、それでは何をする者であるかとたずねたら、雪山が物書きであると答えました。そこで主人は雪山に酒売日記を書くことを依頼して、それでもってその酒代にあてようと約束しました。雪山は何日も泊まり、毎日酒売日記を書いていましたが、主人もその能書ぶりに感心し、また雪山の人柄の無我なのを信用して、とうとう何くれとなく世話をした。
といわれています。
その後、となりの国の某侯が額の揮毫を中国へ依頼しようとして、その草案(下書き)を雪山に書かせたとき、大きい筆をもっていなかったので、軒にかけた簾󠄀の萱を取って打ちくじき、それで書きました。そうして中国へ送ると、中国にもこのような能書はいないといって返してきたので、すぐにこの草案を額にしました。またそれから長崎の人は雪山の能書を知って、揮毫を求めたといわれています。
また、雪山は長崎に帰ってのち16年の間、権貴におもねらず、つにに弊衣を着て、髭を剃らず、爪を切ることもなく、狂人か乞食のようであったといわれ、酒を飲むと、いくらでも書を書きました。
あるとき雪山が東叡山の桜が満開と聞き、弟子の細井広沢に向かって「晴れた日には人出が多くて喧しい。雨の中の花を見よう」と約束し、ちょうどそのとき曇ったので、雪山は広沢をはじめ2,3人をともない、酒を携えて東叡山に行ったところ、雨が降ってきましたが、雪山は濡れながら杯を傾けて楽しんでいました。やがて桜の木から落ちる雨のしずくに全身びしょ濡れになり、ますます大酔しで泥まみれになりながら帰ったといいます。
長崎の人はこのような雪山を尊敬して名前を呼ぶ者はなく、先生とのみいったといいます。
雪山の書跡はどれも脱俗超妙。細井広沢は雪山の学問を「非常之学識」といい、雪山の書を「非常之筆迹」といっています。