荻生徂徠(おぎゅうそらい)を紹介

荻生徂徠は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者です。
生没は1666年~1728(寛文6年~享保13年)。徳川綱吉の侍医方庵の子。江戸の生まれ。名前は双松、徂徠は雅号です。
1679年(延宝7年)14歳のとき、父方庵は事に座して上総国(千葉県)に蟄居(江戸時代の刑罰のひとつ)し、1690年(元禄3年)赦されて江戸に帰るまで、一家は流落の生活をおくりました。
このころ徂徠は書跡を精読して学問を修めることに努めました。
江戸に帰ると芝の増上寺の門前に住んで、朱子学を講じましたが、貧しくて苦労しました。
苦労しながらも『訳文筌蹄』を著わし、文名を天下に知られました。31歳のとき増上寺の了也の推挙によって柳沢吉保に召しかかえられ、将軍徳川綱吉にもたびたび講義しました。当時五百石を給せられていました。
徂徠は元禄年間に古文辞学を提唱しました。1709年(宝永6年)44歳のとき日本橋茅場町に家塾を開くことを許されました。この年綱吉が亡くなり、吉保が隠退しましたが、徂徠は従来どり俸禄を給せられました。
その後は学問と著述に専念しました。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)の書
荻生徂徠は蒙放不羈の性格の人であり、自負心の強い人であったため、書作品も大胆に、そして自由奔放にかきました。
草書を好み、得意としました。
人はその片紙隻字を得ても、これを珍蔵したといいます。
近世の儒者のうちで徂徠と頼山陽はもっとも優れた能書といわれています。
橘南谿は、徂徠の書を評価して、
「徂徠の書、其超凡の趣、近世他の書家の及ぶ所にあらず、其頃、(北島)雪山・(平林)惇信・(細井)広沢など、世に鳴り、明代の書風時運に叶ひて行われし折節にも、徂徠独り時運に引(か)れずして、一家を成す」
といっています。
徂徠の真跡には「草書詩巻」「甲午新正詩」および消息、草書手本『大暦帖』などがあります。