近衛信尹(このえのぶただ)を紹介
近衛信尹(1565~1614)は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した能書(書の巧みな人)です。
初めの名は信基、つぎに信輔と改名、さらに信尹に変えました。
性格は血の気の多い性格だったようで、摂関家の名門の出ですが、豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄の役」が起こると、自ら軍に入ることを希望しました。(しかし許可は下りなかった)
書道家としては、本阿弥光悦や松花堂昭乗とならんで「寛永の三筆」と称されるほどで、その書は三藐院流と呼ばれて流行しました。
近衛信尹の官途
信尹の官途については『公卿補任』や『諸家伝』などからたどることができます。
関白・近衛前久(1536~1612)の嫡男として生まれ、生まれながらに貴族の権威を持っていました。
1577年(天正5年)閏7月13歳のとき、元服、正五位下に叙され、禁色昇殿を許されました。加冠の役は、時の内大臣・織田信長(1534~1582)。彼の名の1字を与えられて、信基と名乗るようになります。その年は残り半年足らず。その間、2度の叙位、しかもそれは越階という超スピード昇進で、11月には従三位・左中将でした。
翌年、正三位・権大納言。そして、天正8年、従二位・内大臣、10年正二位に昇ります。この年、信輔と改名しました。
天正13年、左大臣、そして7月11日、50歳の豊臣秀吉が従一位・関白に任じたその日、21歳の信尹は従一位に昇りました。
朝鮮への出征を希望
摂関家の嫡男として生まれた強度の自負心が、その性格を形成して、血の気の多い衝動に駆り立てられる性格だったようです。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(「文禄の役」)のころになると、自身も軍に入り渡海することを希望したのです。
27歳、左大臣の要職についていましたが、後陽成天皇にその従軍を願い出ましたが、神代以来連綿と続いた名門が絶えることを心配して許されませんでした。しかし、彼はあきらめず、1593年(文禄2年)2月には、肥前・名護屋の本営に参着して、在陣の諸将軍に自分の希望を述べて説得をはかりました。が、天皇はその月10日付の書面を秀吉に送って、これをとどめました(『三藐院記』『駒井日記』)。
しかし、そんなことでひるむ信輔(信尹)ではありませんでした。なかなかあきらめない彼に手を焼いた秀吉は、京都所司代前田玄以(1539~1602)を介して、この旨を後陽成天皇に報告しました。その間の事情は、翌年4月12日付で右大臣菊亭晴季ほか2名の公卿にあてて出された覚書(「荻野文書」)によって知ることができます。
その結果は、やはり名門の信尹が朝鮮へ出兵することは認められず、むしろ信尹は天皇の勅勘(天皇の命令で罰せられること)を受けるはめとなってしまいました。
これを見聞した興福寺の僧が、その一部始終を日記に書きとどめています(『多聞院日記』文禄3年4月13日条)。勅勘の内容は、軍紀を乱し、高官公卿にあるまじき軽率なふるまいをしたという理由で、1594年(文禄3年)の4月15日、遠い薩摩の南端、坊津に配流されました。
その道中の様子は、秀吉の右筆を務めた駒井重勝の『駒井日記』や信尹自身の日記『三藐院記』、あるいは自筆の紀行文(京都・陽明文庫蔵)などによって知ることができます。
落ち行く先は九州の果て鹿児島。藩主島津義久(1533~1611)の厚遇を受けて立野の館に入りましたが、ほどなく、鹿児島の西南、坊津に移りました。配所での彼は、歌道に余念がなく花鳥風月を友とする在留3年の流謫生活を過ごしました。
1596年(慶長元年)4月、秀吉の仲介で京都へ戻ることをゆるされましたが、京都に帰着したのは9月に入ってからのことでした。
彼が名前を信尹と改名したのは、京都へ戻ったあと、慶長4年、35歳のときでした。その後還任して、慶長6年37歳のとき再び左大臣になり、慶長11年42歳のとき関白となり左大臣をやめました。牛車・随身、兵仗(どれも関白として宮廷入りの行粧)の宣下があり、位人臣を極めたのでした。
法名は大徳寺の春屋和尚の命名で、同徹大初、院号は三藐院。仏典のなかの三藐三菩提(仏の完全な悟り)の経句に由来するものです。
後世、もっぱらこの三藐院の名前で親しまれ、近衛三藐院として知られます。
能書としての近衛信尹
近衛信尹の書は、当時随一という評価を受けていました。それは自他ともに共通の認識だったようです。
それを語る1つの逸話があります。
『続近世畸人伝』(5冊・寛政5年〈1793〉刊、三熊思考著)という本に見えるものです。長い引用ですが、紹介します。
「或時、近衛三藐院殿、光悦にたづねたまふ。今天下に能書といふは誰とかするぞ、と。光悦先づさて次は君、次は八幡の坊也。藤公、その先づとは誰ぞと仰たまふに、恐れながら私なりと申す。此時此三筆天下に名あり。
また、或時藤公にはかに光悦を召しければ、何事ぞとあはてて参るを即ちおまへにめして、悦が手をきととらせ給ひ、汝は…と言もあららかに仰たまふに、悦思ひよらざることなれば、御意にたがひし覚は侍らずと、恐れ…申ければ、公打わらはせ給ひ、何としてかくはよく書くぞと戯れたまふこともあり。又松花堂とともに藤公へまいる。夜のふくるまで御物語申せし時、今古の書家を品評したまひ、孫過庭・虞世南ともに王右軍を学といへども、其風なし。今人はその風を学んでその心を学ばず、其姿を真似るを書奴といふ。書奴の名を得んよりは、おのおの我好にまかせて一家を成べしと言ふ。二子、我等も常に思ひ侍る所也とて、あすともに書を成して、おまへに戦はしめんとて、帰りぬ。約のごとく明日、二子まいり、公の御書とならべて、おの…一風を書出せしをくらべける。今日、近衛流・光悦流・滝本流とて世にもてはやさる、」
内容は、
三藐院(信尹)が、「今、天下に能書といふは誰とかするぞ」(現在、世間で能書というのは、いったいだれであろうか)とたずねました。三藐院は、本阿弥光悦がきっと、それはあなた様です、とお追従をいうであろうと期待していたのですが、答えはそれを裏切りました。
光悦の口から出た第一声は、それはまず私です、と。心憎いばかりの自信のほどです。
しかし、この『続近世畸人伝』の著者が、その以下に述べるように、三藐院の書に対しても高い評価を与えています。信尹の書流は、このように近衛流と呼ばれて、多くの人々に学ばれました。この近衛流は当時から別に、「三藐院殿流ともいひ近衛様とも申すなり」(『類聚名物考』巻第45)とも呼ばれていました。
今日では、『続近世畸人伝』に挙げられている、近衛信尹・本阿弥光悦・松花堂昭乗の3人を「寛永の三筆」として並称するのが書道史の常識となっています。
近衛信尹の書風
近衛信尹の書風は、はじめ青蓮院流でしたが、年とともに徐々に変化し、信尹と改名したころから個性がわかりやすい書風になり、近衛流または三藐院流といわれました。
信尹の書の特徴は、自由に大胆に書き、大きくて力強いです。「や」「み」などにある大きな右回旋はとくに特徴的です。
これまでの仮名は小字のみでしたが、信尹は六曲屏風に和歌一首を散らし書きにし、今までだれも書いたことのない大字仮名を初めて書きました。