王鐸(おうたく)
王鐸(1592~1652)は、字を覚斯、雅号は嵩樵・癡庵などがあります。
山西省洪洞県の出身ですが、河南省孟津県に籍を置きました。
王鐸の生涯
王鐸は明と清の両朝に仕えたことから、明の遺民には節操のない人物として冷たい目で見られたというのが有名な話です。
明時代
明朝の滅亡が近い、天啓2年(1622)、進士(科挙6科の1つ)に合格して翰林院という役所に入ります。ちなみに同年の進士には黄道周・倪元璐らがいます。
明は宦官が勝手気ままに振舞った時代で、偉くなるためには宦官のボスに贈り物をしなければならない時代でした。
悪政を恨む農民暴動は各地におこり、北では後の清朝になった女真族が次第に勢いを伸ばしていきました。
崇禎17年(1644)、王鐸は南京礼部尚書(文部大臣)に任命されますが、休暇で帰っていた故郷から北京にいって任官する直前に北京が清軍に攻めおとされ、明は滅びます。
清時代
王朝を清とした征服者たちは、明の民族をうまく手なずけ従わせるために、自己の陣営に投じた明の知識人たちを重用します。
王鐸は清王朝になると順治3年(1646)に、弘文館学士となり、『明史』を編集する副総裁となります。中国の歴史が次々に王朝が立ちながら一貫している理由の1つは征服した王朝が前の王朝の歴史を作る、つまり滅亡王朝の中国字の中での位置を決定することにあります。『明史』を編集する時、清は明の後を継いで、中国の主権者となることを内外に宣言することになります。
明の亡命した人たちからすれば、明史を作る王鐸は裏切り者です。道義を尊う中国の知識人たちは当然、清朝に対して好意的ではありませんでした。
しかし、中国史の中での明朝の存在意義、明末に中国の知識人たちが戦った大義を明らかにするためにも、王鐸が任せられた明史の作成に従事することはとても重要なことです。
その後順調に出世し、明朝でも任命された礼部尚書にまで上りつめます。順治9年、礼部尚書に任官後、休暇をとって故郷に帰りますが、そこで病気により61歳で亡くなりました。
王鐸は官僚には向いていなかった⁈
王鐸は、国家の非常事態に政治の枢要を預かる器量など、本来持ち合わせていなかったといいます。彼のそうした様子を語る逸話がいくつかあります。
たとえば、門人のひとりが勅命で出張するため、王鐸に挨拶に出向くと「いまもっとも大事な急務がある」と言われます。どういったものか聞いてみると、「経書に誤字が多く、それが長く続いているから、急いで修正しなければならない」と言うので、門人は笑いをこらえて退出しました。
また、某将軍が清軍を迎撃するということで、王鐸に挨拶に来ると「軍務の余暇には、字を学ばねばならぬぞよ」と言ったそうです。戦争の合間に字を練習する武将なんていないですよね。
こうした言動では、無能な官僚と非難されても仕方ありません。
逸話をつなぎ合わせると、文人学者バカという人物像が浮かび上がってきます。
王鐸は詩文書画もよくしましたが、もっとも傑作したのは、書です。
一生、古法帖の臨書に努めました。
「1日は臨書、1日は人の求めに応じて作品を制作し、終身これを貫いた」
という証言があります。
王鐸は卑怯な人間だったのか
ヨーロッパの芸術家は権力者に召しかかえられながら、彼らのための作品や自分が好きなように作品を制作しました。
中国の文化人もこれと似たように、芸術活動を行う舞台を得るために官吏登用試験を受けたという面があります。
王鐸は官位をすすめられるたびに、休みをとったり、召しに応じないで、故郷に帰ってしまいます。
明にも清にもそれらに仕えることは、王鐸にとっては第一義ではなく、彼の第一義は書と画にあり、政府の高官という役職は、芸術活動を続けるための仮の手段だったのでしょう。
王鐸の書風
王鐸は大男で、声も破れ鐘のようであったといい、好んで肉食して数升の酒を飲み、好物のうどんをたらふく食い、食べ終えて書きますが、気力が充実して100枚近く書いても疲れを見せなかった、という証言があります。
彼の50代半ばまでの作品は、あくが強く覇気と粘りがあり、おそろしく呼吸が長いです。
しかも、筆を縦横に扱い気ままに書き飛ばしているようでいて、字形の勘どころも全体のバランスも絶妙に収めています。
線質
王鐸の線質には大きく分けて強い重厚な線質と、切れ味鋭いシャープな線質があります。
重厚な線を書くポイントとして、墨を多く含ませる、運筆を遅くする、の2点が挙げられます。
臨書をする際には、切れ味のある線を書くポイントとして、墨を少なくしてやや早めに運筆し、筆の穂先で紙を切っていくような感覚で書くとよいでしょう。
字形
字形は特に太細の変化に気を付けて書きます。
1つの字の中で、線が太くなったり、細くなったりしています。線の太さに変化をつけることによって、字全体のバランスを保っています。
そのため字形が大きく変化すつことになるので、これも臨書をする際には注意してほしい大事なところです。
文字の大小の変化
作品を作る際の大事なことに、文字を同じ大きさで書かない、ということが挙げられます。
字の大小の変化ということは、余白をどのように取るかということなので、大きい字と小さい字をどのように組み合わせて作品を作るかということを、王鐸の作品から学ぶことができます。
連綿
王鐸の連綿の技法は、文字の間隔を詰めた連綿、文字の間隔をあけた連綿、虚線(字と字をつなぐ線)を強くした連綿の3つがあります。
2字以上の文字を連綿させた効果として、流れがきれいに出るということが挙げられます。
しかし、連綿するときは、無理に文字を続けないことが大切です。無理に連綿させても作品の流れを断ち切ってしまいます。
また、王鐸には1行全部を連綿させている作品もあります。
しかし、私たちが作品を書く場合は、3文字から5文字くらいの連綿に止めておくのが良いでしょう。
行の揺れ
王鐸の作品を見ると、行が左右に揺れているものが数多くあります。
しかし、実は見た目ほど文字の中心は動いていないんです。
上で紹介した線質や字形の変化によって、揺れて見える部分もあります。
私たちの作品制作の場では、行の揺れを意識するあまりわざとらしく左右に揺らすのではなく、字形の変化や上の文字の最終画の方向に揺らすことを意識しましょう。
墨継ぎ
王鐸の作品は、紙ではなく絖本(ヌメ)と呼ばれる絹に書かれています。
絖本は私たちがふだん使っている紙本と違い、墨をあまり吸わず、ほとんどにじみません。
そのため1行をにじみもせず、かすれもせずに、一息で書くことができるのです。
したがって、自分の作品制作で王鐸の墨継ぎを参考にする場合は、絖本と紙本のちがいを把握しておくことが必要です。