中国の書家

金農(きんのう)の書き方・独特な隷書の書き方を作り上げた書道芸術家

中国の書家

金農きんのう(1687~1763)は、字を寿門。

別名の金冬心きんとうしんでもよく知られていますが、他にも別号がとても多い人です。

今回は、金農の隷書について、その書き方を解説していきます。
また、金農とはどんな人だったのかも紹介します。

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金農の書風、書き方

金農と言えば独特な隷書を書くことで有名です。

金農の隷書は、35歳前後の作品は抑揚のない平板な書風ですが、30代の後半ごろから西嶽せいがく華山かざん廟碑びょうひを好んで臨書し、その結果、40代半ばには漢隷によるいわば正攻法の隷書対聯軸、隷書軸のような様式を完成させました。

50代半ば以降には、呉の禅国山碑ぜんこくざんひ天発神讖碑てんぱつしんしんひから会得したと自ら言っている、画竹題記屏のような様式へと移ります。

これが、通常私たちがよくみる金農の書風です。

漆書しっしょ”とよばれる頭が重く脚が短い、鋭いひげのような左払いの点画に独特の風貌をそなえています。

横線を太く、縦線を細く、これを書くために筆先を切った筆を使って工夫しました。

彼の書風は、古代の美を愛好しながらも、すでに完成された観念にとらわれることなく、稚拙と古僕さをねらった意外性が、強烈な個性うち出すことに成功し、清時代の芸術史に大きな足跡を残しました。

金農とはどんな芸術家だったのか

金農(金冬心きんとうしん)が生まれたのは、王鐸おうたくの死後30年後、聖祖といわれた康熙こうき帝の26年でした。

清朝が北京に都を定めてから60年以上もたち、各地の反清闘争も終わり、清代もようやく全盛時代をむかえようとしていました。

こういう時代に金農のような芸術家が現れることは、19世紀後半のフランス-パリに多くの芸術家が集まったのと同じで、歴史的必然とも言えます。

また、生活のスタイルについても金農はそれ以前の文人たち、たとえば王鐸などのような内職的芸術家ではありませんでした。

王鐸にとって士官になることはあくまで書を続けるための手段でしかありませんでしたが、金農は生涯、官職には就きませんでした。

学問芸術ははすくなくとも金農にとって何より自分のためであって、官史登用試験に合格するための手段ではありませんでした。

清の全盛時代なので、民力が豊かで金農のような芸術家を尊敬し、その生活を支える豪家(パトロン的存在)が全中国にいたのです。

金農の人生

金農の人生は3つの時期に分けられます。

1つ目は生まれてからの30年間で、彼は生まれた地で、就業に励んだ時期です。

2つ目は30歳ころから60歳ころまでの放浪時代です。
ぞんぶんに芸術活動を行った時期です。

3つ目は掦州ようしゅうに住んで書画を売りながら暮らした晩年の時期です。

郷里での就業

金農が生まれた家は、山、土地、家屋を所有するという、中国社会で伝統党的に知識人を出す有産階級に属していました。

彼はそんな恵まれた環境にあって若い時から古典を学び詩を作っていました。

17歳の時、近くの項霜田という人から詩の手ほどきを受けました。
項は金農の詩を見て、

「自分は年をとっているから、君が将来大成するさまを見ることができないのは残念である」

と悲しんだといいます。

そこで、項は金農を年下の友人としてもてなし、優れた学者、立派な人との会合がある時には、金農も項についていきました。

20歳の時、会稽に毛奇齢もうきれいをたずね、彼に師事します。

毛は大家でしたが、すでに91歳でした。

毛は金農の詩を見て、

「自分の門下には秀才、奇才がそれぞれ才を競っているが、金農の詩才は断然すぐれている」

と言いました。

放浪時代

金農はこのままふるさとで悠々ゆうゆうとした生活多くっていくようにも見えますが、32歳の時から旅を好むようになります。

何度か旅を繰り返し、3,4人から6,7人の従者を従え、秘書や硯を作るもの、音楽家などがその中に含まれており、当時としては珍しい西洋犬もつれていました。

まるで酒宴の興を楽しむような態度で旅に出ていました。

しかし、金農はすこしの田地と家屋の持ち主でしかないため、旅行の費用がかかり経済的に追い詰められてしまします。

彼は51歳の時に、博学鴻詞科の試験を受けに都に上っています。結果的に落ちることになりますが、受験した理由の1つに国家からの給与が欲しくなったからではないでしょうか。

57歳の時、故郷に帰り、友人の梁啓心の家に居候しています。
理由として、2つしか考えられません。

1つは家族との不和、もう1つは家が破産していたということです。

なぜなら4年後、金農は妹の家に移り、金農の奥さんは娘の家、つまり娘の嫁ぎ先にいたからです。

一家の主人の金農が旅行がちでお金を湯水のように使って、家のことを考えていません。

そのうち家の資産はつき果て、金農の奥さんは実家に帰るか子供に頼るしかありません。

書画を売りながら暮らす

一方、金農の方は、60をすぎて妹の嫁入った家に居候しているのも肩身が狭かったのでしょう。

63歳の時に彼は掦州ようしゅうに移り、そこで絵や詩を売って生活し始めました。

掦州は多くの芸術家とパトロンが集まっている所だったため、金農のような人物には生きやすい場所でした。

「当時の金農は書画を売って、年に千金を得ていたが、片っ端から使い果たしてしまった」

という景気の良い文章がありますが、いかに威勢が良くてもその日暮らしで年老いた金農は心細かったのではないでしょうか。

そして乾隆けんりゅう28年、77歳の年に、仏教の寺で亡くなりました。

家も肉親もすてて晩年孤独に暮らした人物が、仏の慈悲を求めるようになったのも、考えてみると哀れですね。

金農の性格

自分の詩集に自分で序文を書いて、その序文の中で幼少の時からの詩の才能を誇っています。

序文というものは、本文を解説し、見どころがあればそれを引き立てるものでしょう。

そのためには自分で序文を書くというのは難しいことです。

他の人に頼むのが普通ですが、金農は全著作に他人に序文を依頼せず、すべて自分で書いています。

楽観的というか、自己中心的というか、とても癖のある性格の持ち主と言えます。

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