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比田井天来とは/作品紹介/書学院、大日本書道院の創設/俯仰法の開発

日本の書家

比田井天来(ひだいてんらい)は、師匠である日下部鳴鶴くさかべめいかくの遺した碑版法帖ひばんほうじょうの多くをゆずりうけるなど、古典の研究に没頭して独自の書道観を作り上げました。

彼の門弟には、比田井南谷ひだいなんこく上田桑鳩うえだそうきゅう桑原翠邦くりはらすいほう鮫島看山さめじまかんざん金子鷗亭かねこおうてい大沢雅休おおさわがきゅう手島右卿てしまゆうけい沖六鵬おきりくほう石橋犀水いしばしさいすい半田神来はんだしんらいなどがいますが、天来のもつ創造性がこれら門人を通して現代の書におおきな影響を与えています。

というのも、現代の書を代表する近代詩文書きんだいしぶんしょ前衛書ぜんえいしょ小字数書しょうじすうしょは、ほとんど天来系統の人たちによって開拓されたものだからです。

よって、比田井天来は「現代書道の父」とたたえられています。

今回は比田井天来とはどんな書家だったのか、彼の作品や功績などを紹介します。

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比田井天来の基本情報

比田井天来
比田井天来

比田井天来ひだいてんらいが生まれたのは長野県佐久郡協和村片倉(現在北佐久郡望月町大字協和7347)です。

生まれた年は明治5年(1872)1月23日。

その屋敷は今でもちゃんと昔のままで、門前の大きな石に桑原翠邦くわはらすいほうが「比田井天来先生誕生之地」と書いています。

比田井家は醤油業を営む村でも屈指の有力者で、現在も醤油業を続けており、いくつも倉庫が並んでいます。

天来は雅号で、本名はこう、幼名常太郎つねたろうあざなは象之、別号に画沙かくさ大樸たいぼくなどがあります。

父は清右衛門、母はこと子といい、天来はその間の3番目の子です。

比田井天来の人生

比田井天来は30歳までは書道の学究にとりくみ、教員免許取得後は書道教育者として20年間在任しました。また、既存の書道団体からは独立して、独自の書道団体を立ち上げました。

書道教育者になるまで

比田井天来の幼少期のことは明らかではありませんが、明治20年3月協和小学校温習科を卒業すると、16歳で隣町である南佐久郡野沢町の有隣義塾に入り、漢学を学びながら書法(書道)を独習しました。

書法には特に熱心で、20歳過ぎにはほぼ書の各書体をこなしたといいます。

天来が上京したのは明治30年(1897)5月、26歳のときでした。

それまでの独学の態度を離れ、日下部鳴鶴くさかべめいかくに入門するために上京したのですが、目的からするとずいぶん遅い方で、かなり計画的に上京を考えており、郷里からは相当の財産を分けてもらったらしく、生活費は十分用意して、賃貸政策によってなんの苦労もなく勉学に励むことができました。

上京の年、彼は小石川の哲学館に入って哲学を学びながら、日下部鳴鶴に書法を、詩を岡本黄石おかもとこうせきに学びました。

最初にいきなり哲学を学びだしたのは不思議ですが、翌年明治31年には二松学舎に転学し、漢籍・金石学・文字学を学び、本格的な学究生活に入りました。

明治34年、30歳になると、田中元子と結婚。新居を神田小川町に構え新生活に入りました。

新婦は新鮮な仮名書家として書壇に迎えられ、のちについに女流書家の第一線にのぼり、国定書き方手本の揮毫にも従った、比田井小琴しょうきんです。

また、同じ年に文検習字科の試験にも合格します。

この文検習字科の試験はとても需要で、年に数人しか合格できないという難関でしたが、その代わり一度合格したとなると、たちまちトップレベルの書家と認められるというものでした。

天来も東京陸軍地方幼年学校の教授委嘱に迎えられ、これで生活も安定させることができました。

書道教育者としての比田井天来

明治34年、文部省(現在の文部科学省)中等教員習学免許状を受け、東京陸軍幼年学校習字科教授となったことが、書道教育者としてのはじまりです。

明治36年には陸軍助教に任命されます。

大正4年44歳、東京高等師範学校習字科講師(高校に書道科教官をおいたはじまり)となります。

大正5年45歳、内閣教員検定委員臨時委員となります。

これが文検委員で、彼がこの試験に合格したのが明治34年、それから15年のうちに受けるものから受けさせるものとなりました。

この仕事は大正8年までつづき、その間、試験の内容にこれまでなかった書道史・鑑識・設問を追加して日本の書道研究を本格的なものにしました。

昭和7年61歳、東京美術学校講師。

昭和8年62歳、神奈川県師範学校講師。

以上が天来の書道教育者としての経歴で、20年在任しました。

書道教育者引退後

書道教育者引退後は50代ごろから進めていた自らの書道団体である「書学院」の運営、諸雑誌の刊行に注力しました。

昭和12年66歳の時に「大日本書道院」を創立しますが、そのわずか1年後…

昭和13年1月20日、大阪の旅の途中に血尿が出たことから帰ると膀胱乳嘴(癌)と診断を受けます。

それから書道活動をつづけながらも入退院を繰り返し、翌年昭和14年1月4日、68歳で亡くなりました。

病床には門人その他大勢の人々が入れ代わり立ち代わりしたそうです。

比田井天来が設立した書道団体

比田井天来はとても行動力、独占欲が強い人だったらしく、自分の理想を実現させようと独自で書道団体を設立しています。

書学院の設立

大正7年、比田井天来が書道を深める場として、若い書を学ぶ学生の遊びの場として「書学院」の設立を思い立ちます。

昭和5年東京・代々木山谷に代々木書学院を、さらに昭和11年には鎌倉書学院を開設しました。

これは書道・字学の研究所であり、天来が生涯かけて収集した古書碑版の法帖を収める書道資料館の性格も持つものでした。

天来はここに集い来る門人には「書学院教授」を名乗らせ、彼らを左右に従えて天下の教団を作ろうとしましたが、約2年後の昭和14年に病気で亡くなってしまいます。

大日本書道院の設立

大正14年「日本書道作振会」に対して不平を抱き離脱した天来は、その後の長い間ほとんど書壇の表面には現れず、鳴かず飛ばず、隠忍自重の十数年を過ごします。

しかし、泰東書道会、東方書道会、三楽書道会などの勢力が弱まってきたのを見て、好機が来たと彼は立ち上がり、昭和12年「大日本書道院」を創立します。

第1回大日本書道院展は昭和12年7月24日から8日間で、特にそのときの書道会が驚いたのは「天来1人の単独審査」という型破りな審査方法だったということです。

これは急なことなので人選が間に合わなかったのもあるかもしれませんが、彼の統制欲が強烈に作用しているもので、審査結果は天来の好みに塗りつぶされてしまう結果となります。

すでに書道会で大いに活躍している書家たちにおかまいなく平出品させ、そのうち6人を選んで特別賞を与え、会の中心メンバーであるお墨付きを与えます。

その6人を紹介しておきます。
大沢雅休・鮫島看山・鈴木鳴鐸・手島右卿・金子鷗亭・桑原翠邦

第2回展になると、14人の審査員に個別で独断的に審査させるという新機軸を出してまた書道会を驚かせました。

ところが、第2回展が終わった年初、1月4日、リーダーである天来が病死してしまいます。

この非常事態に対して会のなかで解散の意見も出ましたが、遺業を受け継いでその理念を貫き通そうという意見が圧倒的で、第3回展は天来遺作展も併催しました。

その後は、第二次大戦が深刻化して各書道団体が身の振り方を考えなければならない時期に直面すると、いち早く解散を宣言して興亜書道連盟に浸食されました。

比田井天来が生み出した剛毛筆による「俯仰法」

天来は26歳で上京し、日下部鳴鶴くさかべめいかくの門に入りました。

鳴鶴めいかくの筆法は、柔らかく長い穂先ほさきの筆を使った「廻腕法かいわんほう」です。筆を紙に垂直に立て、その角度を保ちつつ運筆する方法です。

天来も最初はこの筆法を用いていましたが、古典を研究するうちにこの廻腕法かいわんほうに疑問を持つようになります。

この筆法では、中国唐時代の健やかな楷書を書くことができないと考えたのです。

廻腕法に代わる新しい筆法の研究は42歳ごろから始まります。

文部省検定委員を委嘱された45歳のときから2年余り、天来は家族から離れて北鎌倉建長寺正統庵に住み、筆法研究に没頭します。

そして、ある日の夜明け、天来は筆法を発見、嬉しさのあまり寝ていた妻、小琴を起こしました。

小琴が見たのは無数に書かれた漢字の「一」。

「私は主人が気が狂ったと思いました」と小琴は後に語っています。

その結果生まれたのが、剛毛筆によるあの有名な「俯仰法ぶぎょうほう」です。

俯仰法の特徴としては、筆を運ぶにつれて筆管が少しずつ進行方向へ傾いていき、終筆の部分ではかなり傾いています。終筆は筆管を起こしながら逆方向に筆を上げていきます

この運筆法には絶対の自信を持ち、門人である桑原翠邦をつかわして中国に布教もしたそうで、ここでも天来の独占欲の強さが伝わります。

比田井天来の作品

臨 蘭亭序

比田井天来 作品

臨 風信帖

比田井天来の年譜

比田井天来の年譜
  • 明治5年(1872)
    0歳

    1月23日、長野県北佐久郡協和村片倉に父・清右衛門、母・こと子の三男として生まれる。幼名常太郎

  • 明治20年(1887)
    16歳

    協和小学校温習科卒業後、野沢町の有隣塾に入り漢学を学び、同時に古法帖により書を独習する。

  • 明治23年(1890)
    19歳

    本名を常太郎からこうと改名する。

  • 明治30年(1897)
    26歳

    5月上京。小石川哲学館に入る。同時に日下部鳴鶴くさかべめいかくに入門して書法を学び、また詩を岡本黄石おかもとこうせきに学ぶ。

  • 明治31年(1898)
    27歳

    二松学舎に転学。漢籍、金石文字学、各書体字学を研究。渡辺沙鴎、久志本梅荘、若林快雪などと親交。書家としてようやく知られ始める。

  • 明治34年(1901)
    30歳

    住居を鎌倉円覚寺済蔭庵に移し、書道を極めながら釈宗演師について禅をおさめる。田中元(小琴しょうきん)と結婚。新居を神田小川町34にもつ。東京陸軍幼年学校習字科教授を担当。

  • 明治36年(1903)
    32歳

    陸軍助教授に任命され、陸軍地方幼年学校付を命じられ、明治45年まで教壇に上った。

  • 明治38年(1905)
    34歳

    三省堂の「日本百科事典」の書道項目を担当執筆する。

  • 大正2年(1913)
    42歳

    重病にかかる。7月井原雲涯氏の懇望で出雲地方遊歴し、はじめて書会を開く。この頃から剛毛による用筆法の研究を始める。

  • 大正3年(1914)
    43歳

    日下部鳴鶴くさかべめいかくにから雑誌「書勢」の運営を依頼される。松方海東(正義)公の知遇をうける。

  • 大正4年(1915)
    44歳

    東京高等師範学校講師を担当。この頃から松田南溟氏と親交を深める。

  • 大正5年(1916)
    45歳

    鎌倉建長寺内正統庵に独居すること2年余り、この間古典に没頭、古法の筆意を悟り、剛毛筆の使用により書法を一新し、近代書芸への兆しをかかげる。松方公爵家に伝えられる空海の用筆秘法を見て、さらに確信を深めたのもこの頃。文部省検定委員を担当。

  • 大正8年(1919)
    48歳

    5月から11月まで北海道全道を周遊。「書学院」の建設の計画をたて、東京高校師範学校講師辞任、後任に丹羽海鶴氏を推す。

  • 大正10年(1921)
    50歳

    松田南溟氏と協力で古法筆法の研究を続ける。その集成として「学書筌蹄」の刊行開始(大正12年に完結)。「浅岡先生頌徳碑」、「征露役忠魂碑記」を揮毫。この頃から犬養木堂氏をの来住深まる。

  • 大正12年
    52歳

    9月大震災にあい、上田市で1年あまりを送る。「信濃川治水工事碑記」を揮毫。

  • 大正14年(1925)
    54歳

    台湾各地を遊歴する。「鳴鶴先生隷法字彙」を刊行。

  • 大正15年(1926)
    55歳

    朝鮮各地を遊歴、斎藤実総督との親交を深める。「昭代法帖」を第3集まで刊行。以後昭和8年までに第15集まで刊行。

  • 昭和3年(1928)
    57歳

    「若槻翁寿碑」を揮毫。

  • 昭和4年(1929)
    58歳

    北海道、樺太各地を遊歴する。

  • 昭和5年(1930)
    59歳

    渋谷区代々木山谷に書学院の建築完成。「秋南先生教思碑」を書く。雄山閣より「天来習作帖」を発行。「朝鮮書道精華」を編刊する。

  • 昭和6年(1931)
    60歳

    月刊「書道春秋」、「実用書道」を発刊。「修正古法帖選」の刊行を開始する(没年まで続刊)。

  • 昭和7年(1932)
    61歳

    東京美術学校講師となる。「鳴鶴先生楷法字彙」を刊行する。第1回書学院講習会を開催。それいらい3年間続き、第3回で止める。鎌倉書学院の建設に着手する。

  • 昭和9年(1934)
    63歳

    「浜口雄幸墓銘」を揮毫。この頃から主として羊毛(軟毛)筆を使用し新しい運筆法を用いる。

  • 昭和10年(1935)
    64歳

    再度台湾を遊歴する。鎌倉書学院の建設を完成する。

  • 昭和11年(1936)
    65歳

    大連、旅順、奉天に出遊。

  • 昭和12年(1937)
    66歳

    「大日本書道院」を創設。8月第1回展。6月、帝国芸術院会員に推される。月刊「書勢」を刊行。「大本営陸軍部」の門標を揮毫。

  • 昭和13年(1938)
    67歳

    1月に「慰霊之碑」を揮毫。同月発病、2月東大病院に入院。この間に「戊寅ぼいん帖」所収の作品を揮毫。4月末退院。万国博覧会顧問および準備委員を依頼される。10月以降鎌倉に移り静養。漢字整理の事業を進める。日満華親善書道展覧会審査員を依頼される。

  • 昭和14年(1939)
    68歳

    1月4日死去。鎌倉華蔵院内に埋葬。法号、書学院殿大誉万象天来居士。

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