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日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が近現代書道界にあたえた影響・功績

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こんにちは、中村です。

日下部鳴鶴くさかべめいかくは、明治書壇しょだんを組織化し、その中心人物として多くの書家を養成した指導者です。

書壇、書道雑誌出版、展覧会活動などは今、美術界をはるかにしのぐ規模ですが、これらは鳴鶴が先駆けと言っていいでしょう。

今回は、日下部鳴鶴とはどんな人物なのか、また日本の近現代の書道界にどのような影響を与えたのかを解説していきます。

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日下部鳴鶴の人生

日下部鳴鶴は彦根ひこね藩士(滋賀県)です。

天保てんぽう9年(1838)8月18日、田口たぐちそう右衛門うえもんの次男として江戸藩邸の中に生まれました。

安政あんせい6年(1859)22歳の時、彦根藩士日下部くさかべ三郎さぶろう右衛門うえもん命立の養子となり、その女と結婚、ここから姓を日下部と名乗ることになります。

24歳のころには京都に出て、書を読み、字を習い始めます。師には恵まれず、独学自習でした。

明治めいじ元年(1868)、当時31歳のとき、江戸は東京と改まり、鳴鶴は新しい決意をもって東京を志し、新政府の官僚としての第一歩を踏み出します。

官僚になってからは、太政官だいじょうかん小書記官しょうしょきかんからだい書記官に進み、正五位しょうごい(長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄転のひとつ)になります。

うまくたちまわって、三条さんじょう太政大臣だいじょうだいじん大久保内務卿おおおくぼないむきょうの信任を得てひどく可愛がられたようです。まさにエリート官僚の座に上り詰めていました。

しかし、明治11年、42歳のころ、事件が起きます。

鳴鶴が親とも頼み慣れ親しんできた大久保利通おおくぼとしみち(薩摩藩で西郷隆盛さいごうたかもりとともに維新を成し遂げ、明治政府では初代内務卿として実権を握った)が惨殺ざんさつされてしまいます。

大久保利通から厚い信任を受けていた鳴鶴は大きな衝撃を受けます。

「世はあまりにも哀れである。無慈悲である。この社会に左右されていては所詮哀れの人に終わるしかない。」

翌年、明治12年になると、彼は42歳にして官僚を辞めることを決意します。そして、直ちに迫る生活問題を書道一筋にかけて生きていくことを決意します。

明治13年、43歳のころ、清国しんこく公使こうし何如璋かじょうしょう(清末の官僚、外交官)の随員ずいいん(使用人)としてやって来た楊守敬ようしゅけいに師事します。

楊守敬は地理学者ですが、書にも詳しく、金石学きんせきがく者としても知られていました。

鳴鶴は本格的に書道及び金石学を学ぶようになります。

言葉が通じないので筆談が主であったと予想されます。日本語も中国語も漢字を使うので、漢字を駆使すればどうにか会話をすることはできるのです。

明治24年(1891)、鳴鶴ははじめて中国へ渡ります。

呉大澂ごだいちょう楊峴ようけん兪越ゆえつ呉昌碩ごしょうせきなどの学者文人と交わり、碑版法帖なども積極的に収集しました。

この旅行で呉昌碩からかなりの数の拓本を買い入れ、それを土産として持ち帰りました。3月から7月という短い期間でしたが、「東海の書聖」ともてはやされ、書道の権威者としての地位を確立。マスコミには「日本の書聖くる」と報道されたそうです。

明治43年(1910)、73歳の時、 彼の代表作である「大久保公おおくぼこう神道碑しんどうひ」を書き上げます。これは明治天皇の勅命によって書かれたものですが、鳴鶴は個人的にこの啤の主人公である大久保利通に太政官大書記官として仕え、多大の恩幸を受けていたため思い入れが強かったと思われます。彼の特徴である懸腕直筆けんわんちょくひつで書かれており、横画の起筆が特徴的になっています。

大正6年(1917)、80歳となり、傘寿さんじゅ『80歳を迎えた方の長寿をお祝いする習慣』を迎えます。

東京の文人や門下生200名のほか、他の地方から集まる多数を加えて、盛大な傘寿を開きました。

この歳を記念して『大同書会』を設立し、教書雑誌『書勢』を刊行します。現在では『全日本書芸文化院』となり、教書雑誌『全書芸』があります。

大正11年、85歳で永眠

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日下部鳴鶴が日本の書に果たした役割

日下部鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人もいたといわれています。

弟子は何世代も受け継がれ、今日の書に大きな影響を及ぼしています。

彼の系統が大きくなった要因として、官界の力をバックにしていたこと、当時の平均寿命(43歳)に比べてとても長生きであったことがあげられます。

太政官大書記官に進み、大久保利通などに信任されていたことは活躍の場を広くしたでしょうし、明治から大正にまたがる85歳という長寿も後進の育成に必要な充分な時間を与えたことになります。

しかし、巌谷いわやいちろく(鳴鶴とほとんど同じような境遇にいた書家、政治家。鳴鶴と同じく楊守敬に師事した)が元老院議官や貴族院議員として鳴鶴よりさらに高位にあり、長寿ということならば中林悟竹なかばやしごちく(鳴鶴、一六、3人を「明治の三筆」)も87歳まで生きていたことから、これらだけが主な理由ではないと考えられます。

他の理由として、六朝りくちょう書(北魏の石刻を主とする書風)運動があります。

明治時代はペリー来航により開国されたことがきっかけて西洋の文化が多く取り入れられます。
政治、経済、文化に新しい思考と方法論が発展しました。

文化の場合、絵画、彫刻、音楽でもみんな西洋方法が学ばれました。

しかし、書道は西洋にないため新しい文化を取り入れ発展することができません。

このような時期に清から来朝した楊守敬によってもたらされた1万数千に達する碑版法帖を利用して文化の変化に対応しました。

六朝書運動を行った中には巌谷いわやいちろくもいましたが、政界の仕事が忙しく、一方鳴鶴は大久保利通の暗殺を機に官僚をやめて書に専念していたことからその中心的存在となりました。

また、鳴鶴の系統が大きくなった要因として、六朝書運動の思想と方法を後の世代に伝える優れた弟子たちに恵まれたこともあると考えられます。

どんなに価値のあるものでも、それを後世に伝える人に恵まれなければ衰退してしまいます。

鳴鶴の弟子は数が多く、しかもバラエティに富んでいました。
これがまた、2世代、3世代にわたって栄えさせることになりました。

日下部鳴鶴直系の弟子のうち、書家としてはもちろん、指導者としての資質に恵まれ、今日の書に大きな足跡を残した人を数人紹介します。

比田井天来

比田井ひだい天来てんらいは、鳴鶴の残した碑版法帖の多くを譲りうけるなど、古典の研究に没頭して独自の書道観を作り上げました。

現代の書を代表する近代詩文書きんだいしぶんしょ前衛書ぜんえいしょ小字数書しょうじすうしょは、ほとんど天来系統の人たちによって開拓されたものです。

近藤雪竹

近藤雪竹こんどうせっちくは、楷書、隷書体による碑文を多く手掛けています。

とくに隷書の作品が有名です。

また、門弟の育成にはもっとも力を注いだ人で、書道団体の審査員として、東京圏だけでなく、近畿圏、中京圏の人材を育成しました。

丹羽海鶴

丹羽海鶴にわかいかくは、鄭道昭ていどうしょうを基調とし、これに初唐の結構を導入して気品あふれる海鶴流を作り上げました。

学習院教官、東京高等師範学校講師、文部科学省教員検定試験委員などを務め、書道教育界にも絶大な影響をおぼしました。

今日の書壇は、ここまで挙げてきた人たちの門弟が今や中心となって活躍しているのです。

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日下部鳴鶴の書法(廻腕執筆法について)

廻腕法かいわんほうは鳴鶴書法の根底を貫く執筆法で、鳴鶴書法解明のカギともいえる特異なものです。

当時、鳴鶴、巌谷いわやいちろく松田雪柯まつだせっからがこの廻腕執筆法の熱心な研究者でした。

この珍しい執筆法は、楊守敬ようしゅけいがその師潘存から授かったもので、羊毫長鋒を用いて八面出鋒、自由自在な運腕ができるという画期的な執筆法でした。

廻腕執筆法の特徴として、

親指と人差し指で筆をつまみ、のこりの三本をそえる、腕は浮かして机と並行、脇をあける
といった感じです。

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最後に

日下部鳴鶴は近代書道の父といわれますが、現代書道の動向そのものが鳴鶴の志向した法書の伝統継承や、書法の大道を歩む正統書道の道から外れているという事情もあって、鳴鶴の書法が十分、正当に評価されていないように思われます。

こうした現代の書道界にあっては、近代書道の大成者日下部鳴鶴の書業を再検討し、再評価すべきであると思います。

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました!

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