王羲之の代表作:蘭亭序
王羲之の代表作品といえば、まず蘭亭序が挙げられるでしょう。
蘭亭序が書かれたのは、彼が51歳のとき、会稽内史として任官していた永和9年(353)のことです。
王羲之は会稽山(浙江省紹興市)のふもとの蘭亭というところに、後に東晋の宰相(総理大臣)となる謝安や文学者として有名な孫綽、王羲之の息子たちなど41名の名士を招いて禊事を行い、曲水流觴の宴(詩会)を開きました。
曲がりくねった川の上流から杯を流し、自分の近くに杯が来るとそれを呑みほして詩をつくるのです。
このときの詩会では、合わせて37首の詩ができました。
主催者である王羲之はこれを詩集に仕上げ、その巻頭に序文を書きました。この序文の部分が「蘭亭序」です。
また、今日に伝存している蘭亭序はその草稿(下書き)です。
伝説によると、王羲之は草稿としてこれを書きましたが、後から書き直そうとしたところ、どうしてもこれをこえるものが書けませんでした。結局この草稿が後世に伝わることとなったのです。
王羲之が蘭亭序を書いたときに任されていた役職「会稽内史」についての話はこちらで紹介しています。
蘭亭序の内容
内容は前半部分では、蘭亭という場所の自然情景とそれに対する賛美が中心となっています。
後半部分では、一転して王羲之の人生観を反映した文章が続きます。その人生観は、孔子の思想さえも否定するほど感情的なものです。
「楽しさはいずれ過ぎ去り、人間もいつかは死ななくてはならない。人のはかなさは悲しいものであるが、それこそ自然な姿であり、生も死も偉大なことだとする孔子のことばは受け入れられない。」
最後には「時が移り事物が変わっても、後の人間がこの文章を見たなら何かを感じてくれるだろう」、と締めくくります。
ぜひ現代語訳も読んでみてください。
蘭亭序の真跡は残っていない
蘭亭序は、古来より書を学ぶ上での範書として多くの人に学ばれてきました。
しかし、私たちが現在、写真や法帖で見ることのできることのできる蘭亭序は、実は唐代以降(王羲之が亡くなってから300年以上あと)に複製されたもの(臨模本や搨模本)であり、真跡ではありません。
- 臨模本とは、原本を横において見ながら写したもの。
- 搨模本とは、原本を下に敷き、透かし写ししたもの。
そもそも作者である王羲之の確実な肉筆(本人の筆跡)はこの世に1つも存在していません。
現在伝わっている摸本のうち、高校書道の教科書をはじめ、私たちがよくみる「八柱第三本(神龍半印本)」ですら、なにも信用できる根拠はありません。
真跡は王羲之の書を酷愛した唐の太宗皇帝が自分の亡骸とともにお墓に埋葬したといわれています。つまり、太宗の死とともに地上からは消滅してしまったということになっているのです。
神龍半印本の印章
私たちがもっとも目にする神龍半印本には印章がたくさん押してあります。
どれも名だたる収蔵家や鑑定家の印で“収蔵印”といいます。
それらは結局、作品をよごしていることになりますが、一面では作品の流伝のあとを知ることができて、鑑賞上、別の楽しみをもたらしてくれます。