楷書の典型は成立したのは初唐7世紀に確立されましたが、その担い手が欧陽詢と虞世南の二人です。
しかし、欧陽詢が数多くの作例を伝えるのに対して、虞世南はとても少なく、結局、孔子廟堂碑を除いて信用のおける作品はありません。
今回は虞世南の代表作である孔子廟堂碑について、碑が建てられた理由や書風、特徴を解説していきます。
虞世南について
まず、孔子廟堂碑を書いた虞世南について解説していきます。
虞世南の人生
虞世南「永定2年(558)~貞観12年(638)」は浙江省越州余姚市の人で、字(別名)は伯施、南朝陳の太子中庶子(皇太子の側近)・虞茘の次男です。
長男でもない世南に字を伯施(伯は長男の意味)とされたのは、父の弟虞寄に子供がいなかったため、あとつぎとなったからです。
生来、冷静沈着で向学心にあつく、学債が豊かで真心の深い秀れた人物であった彼は、幼少より兄世基とともに呉郡の顧野王に学問を学びました。
陳の滅亡
開皇元年(581)、隋が北朝を制し、開皇9年(589)には陳(南朝)を滅ぼして南北朝を統一します。
南朝の人々は母国を失い、敵国の北朝に従うこととなり、何事も国家のあり方は北朝は優先されていたでしょう。
その表れの1つとして王羲之の位置づけのあり方があります。
隋では王羲之の書法を用いるとしても、王羲之個人の尊厳はほとんど伝えられることはなくなりました。
王羲之の子孫である智永が、隋の時代に真草千字文を書いたのも、隋の王羲之軽視に対する反発からです。
北朝の人よりも南朝の人の方が教養が高く、歴史文化に対する認識も豊かであったため、隋は国家建設のために積極的に南朝系を雇います。
虞世南と兄の虞世基も長安に呼ばれ、たちまち2人の秀才ぶりが評判になります。
しかし、長安における兄弟2人のありかたには対照的なものがありました。
兄の虞世基は世渡りが上手で、隋の第2代皇帝・煬帝のときの内史侍郎となります。
隋が高句麗への遠征に失敗すると各地で反乱が起き、兄は煬帝の側近であったため宇文化及(煬帝の殺害者)に煬帝と一緒に殺されてしまします。
一方、弟の虞世南は官職に関心を示さず、質素な生活を続けて初心を大切にしました。
大きな恩がある陳を倒した隋に、たやすくは従うことができなかったのでしょう。
書法においても、北朝風の欧陽詢 とは異なり、南朝出身者の誇りとして、南朝書法の伝統を守ろうとしました。
唐時代
虞世南は隋に対する反乱軍の1人として取り込まれます。
虞世南の存在に強い関心を寄せていたのが秦王の李世民(後の唐の皇帝:太宗)でした。
世民は唐王朝を作ると、虞世南を自身の幕下に迎えます。
太宗即位のとき、著作郎・弘文館学士を務めました。
唐の太宗皇帝は虞世南の人柄と博識を愛し、政務の空いた時間には学問や書について語り合ったといいます。
太宗は、虞世南の「徳行、忠直、博学、文辞、書簡」を“五絶”と褒め讃えたといいます。このうち一つでも持ち合わせていれば名臣として十分であるのに、彼はこれらすべて兼ね揃えていたと言われています。書の顧問として重用されたのをはじめ、後年には秘書監に任命され、永興県寺に移動させられました。
また銀青光禄大夫(従三品)を授かり、81歳の高齢で亡くなった後は、太宗の墓所である昭陵に陪葬(主君を埋葬した墳墓の近くに近臣たちを埋葬すること)されています。
虞世南の書
虞世南の書は、王羲之7世の子孫である同郷の智永から指導を受け、楷書を得意としました。王羲之、王献之(その息子)のどちらを学んだかは古来2つの意見があり定まりませんが、ともあれ南朝の伝統を受け継ぐ、温雅(おだやかで上品なこと)で気品にあふれた書風を完成させました。
北朝の書、南朝の書の違いとして、北朝は造像記、南朝は王羲之の蘭亭序が挙げられます。
北朝の造像記は、ごつごつして力強い雰囲気、南朝の蘭亭序はおだやかで上品な雰囲気があります。
欧陽詢は太宗即位のあと、次つぎと碑文の作成に携わりましたが、虞世南はわずかに「孔子廟堂碑」を残すばかりです。
これについて、 欧陽詢は北朝風の書法を学び、碑文の作成を得意としたのに対し、碑を建てない南朝の伝統を受け継ぐ虞世南は、碑の作成を苦手としたという考えが一般的です。
張懐瓘の「書断」に、欧陽詢と虞世南を比較する有名な評があります。「二人の才知・力量は匹敵するが、各体ともにこなすという点では欧陽詢がまさる。しかし虞は内に剛柔をふくみ、欧は外に筋骨を露している。古来、『君子は器を蔵す』というから、本質面では虞世南の方が優れているといえよう」と言っています。
孔子廟堂碑について解説
孔子廟堂碑は貞観2年(628)、今でいう国立大学にあたる国子監の中に、孔子廟が新しく造営されたことを記念して建てられたのがこの碑になります。
太宗皇帝は武徳9年(626)の即位にあたって、儒教宣楊を国策の最も重要な一つにあげ、文教興隆、学問復興の第一歩として、長安城中の国子監に壮大な孔子廟の修築を命じました。
その時、国子監の長官であった楊師道たちの建議により、その落成を記念する碑が建てられたのが孔子廟堂碑です。その文章の内容、字を書くのを当時人格、博学、書法の上で太宗が最も信頼していた虞世南に命じたのは当然であり、これは彼にとっても大変名誉であったに違いありません。
虞世南71~73歳ころの円熟期に書かれたものであることが分かります。太宗の勅命を受けて書いた唯一の書であることも併せて、虞世南の並々ならぬ心意気が、おだやかな文字のなかにに潜んでいるようにも感じられます。
しかし、残念ながら碑そのものは建立後間もない貞観年間に火災によって亡失してしまいました。後に則天武后の時に覆刻され、武后の子の相王・旦の題額が補刻されたとも言われますが、それも唐末には失ってしまい、現在原石は見ることができません。唯一、「臨川李氏本(三井文庫蔵)」だけが原石を基に唐代に採拓された旧拓で、最も孔子廟堂碑の真実を伝えうるものと言われています。他に伝わっているのは重刻本や摸刻本です。
孔子廟堂碑の書風、特徴
孔子廟堂碑は、先述のとおり虞世南の書として信頼できる唯一のものであるばかりか、「この一碑で古今の万碑に当たるに足るもの」と称えられるほど優れたものです。穏やかで静かなたたずまいが嫌味のない控えめな情緒を醸し、またその中にも伸び伸びとしながら凛とした強さと気品の高さを感じさせます。
一字一字を誠実に心を込めて書いた虞世南の、温厚で謙虚な人間性がそのまま具現したような美しさが、多くの人を惹きつけ、愛されたゆえんなのでしょう。
「内に剛柔を含み」といわれる虞世南の文字は、向かい合う2つの縦画の中ほどが外にふくらむ向勢で構成されています。行書風であり、温順で穏やかです。
しかし、そうした印象を与えるのは、「孔子廟堂碑」がまだ高度な刻法をもっていなかったためだという意見もあります。毛筆で書かれた文字を忠実に刻すだけの筆蝕再現型の未熟な段階にとどまっているのです。
孔子廟堂碑の上達には道具も大切
孔子廟堂碑の書風・特徴を紹介しましたが、上達するためには道具も重要となってきます。
作品を書く際、
「お手本のようになかなか上手に書けない…」
「筆が思うように動いてくれない…」
という方は、普段使っている筆と違う筆を試してみると良いかもしれません。
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