九成宮醴泉銘は、今からおよそ1500年前に書かれたものなのですが、現代でも「楷法の極則」といわれ、楷書のもっとも王道な古典です。
学校で習う楷書の字形も、この九成宮醴泉銘を参考に作られています。
でも九成宮醴泉銘、むずかしいですよね。イメージ通りに書けなくて苦労されている方は多いのではないでしょうか?
今回は、九成宮醴泉銘の内容や作者などについて解説し、九成宮醴泉銘を臨書するときに気をつけたい特徴を3つ紹介していきます。
これら3つの特徴を知っているのと知らないのとでは上達のスピードにかなり差をつけることができると思うので、ぜひ参考にしてください。
九成宮醴泉銘とは?

まず、九成宮醴泉銘についての知識を紹介します。
九成宮醴泉銘とは、中国唐時代の第2代皇帝・太宗の統治や唐王朝の徳を称えた内容が書かれた石碑です。
楷書は中国で3世紀ごろに出現し、唐時代のはじめ7世紀にその典型が確立され、漢字の標準書体として今日に及んでいます。
その典型が確立された唐時代の楷書の代表作品として、古来「楷法の極則」と謳われる名品が、九成宮醴泉銘です。
原碑は現在も陜西省麟遊県の深い山中にあり、九成宮遺趾の碑室に覆われ保護されています。
文字数は1108字、1行50字で24行で彫られています。
上部には篆書で書かれた「九成宮醴泉銘」2行6字があります。
文章を作る撰文は魏徴、文字を書く書丹は欧陽詢が担当しました。
九成宮醴泉銘を書いた欧陽詢とは?
九成宮醴泉銘を書いた人物は、欧陽詢です。
欧陽詢は、正史の伝によると、書においては当時第一等の名手とうたわれていた人物です。
筆力の強さは肩をならべるものなく、その筆跡は模範とされ、高麗(朝鮮の王朝)からも使者を使わしてその筆跡を求めてきたといいます。
欧陽詢は、もともと王羲之をはじめとする南朝の整斉な書風を尊重する人物です。一方、後年は時代の流れもあって造像記をはじめとする厳しい書風の北朝の影響をうけています。
九成宮醴泉銘は、欧陽詢76歳の時の作品になります。
書丹者・欧陽詢についてはこちらで詳しく紹介しています。↓
九成宮醴泉銘の内容

九成宮醴泉銘に書かれている文章の内容を紹介します。
九成宮とは、唐時代の帝室の離宮のことです。
九成宮はもともと中国隋時代の文帝が建設した仁寿宮という名前でした。それを唐の第2代皇帝・太宗がこの建物を修復し、九成宮と改めました。唐王室とは別に設けられた宮殿として、夏の暑さを避ける避暑などに使われました。
この九成宮は高所にあったのでもともと水源に乏しいという欠点があったのですが、貞観6年(632)、太宗皇帝が皇后と一緒に宮内を散歩していたところ、偶然にも西方の一隅に潤いのある所を見つけ、杖でつつくときれいな水が湧き出てきました。高所にある九成宮で湧き水を発見したのです。
このめでたいことを記念して、太宗皇帝は統治や唐王朝の徳を称えた内容の文を作らせました。
九成宮醴泉銘のくわしい内容は、こちらの全文現代語訳で見れます。↓
九成宮醴泉銘の制作を命じたのは太宗皇帝

九成宮醴泉銘の制作を命じたのは、中国唐の第2代皇帝・太宗(598~649)です。
唐の前王朝随の混乱期、父李淵(高祖)に挙兵をすすめ、唐を建国、父を初代皇帝にしました。
626年に即位し、内政・外交に力を尽くし、後世「貞観の治」とよばれる治世を成し遂げて中国史上第一の名君といわれています。
書人としても歴代皇帝のなかで第一にあげられ、王羲之を崇拝しました。
文教政策の一環として、高官の子弟を集めて弘文館を設立、欧陽詢・虞世南らを弘文館学士(指導教官)に任命しました。
太宗についてはこちらで詳しく紹介しています。↓
九成宮醴泉銘の文章をつくったのは魏徴
九成宮醴泉銘の文字を書いたのは欧陽詢ですが、その文章を作ったのは魏徴(580~643)という人です。
魏徴は唐の李淵(初代皇帝)、太宗(2代目皇帝)の2人に仕え、とくに太宗の「貞観の治」の際の功臣として有名です。
官歴としては、はじめ太子洗馬、太宗即位後は諫議大夫となり、鉅鹿男に封ぜられ、629年(貞観3年)秘書監に任命されて政務に参画、さらに校検侍中に進みました。
読書を好み、文章に長け、太宗が昔の王朝梁・陳・隋などの歴史書を編集させる際には、かならず撰者の1人に魏徴を加え、序論の多くは彼の手になったといいます。
書もよくしたとされ、太宗が収集した王羲之の筆跡の鑑定を虞世南とともに命じられ、また虞世南が亡くなった際に変わりの人物として褚遂良を推薦するなどもしています。
64歳で亡くなり、文貞と諡されました。
九成宮醴泉銘の銘文は、53歳のときの文です。
九成宮醴泉銘の拓本について:古いものほど本来の字に近い
九成宮醴泉銘は、欧陽詢の最高手本として昔から人気が高く、多くの拓本がとられてきました。
拓本を取るたびに表面を研磨するので点画は細くなっていきます。さらにその細くなってしまった点画を太くしようと彫り直しされてきたので、現在本来の字形は失われてしまっています。

古い拓本と、新しい時代に取られた拓本とでは、線の太さも字形も変わってしまっているのです。
そのため、古い拓本が珍重されています。

現在、中国の北京故宮博物院にある李祺旧蔵本(明の李祺が旧蔵していた拓)が最も古いものとされています。
その次に古いものとして現在は日本の三井記念美術館に所蔵されている海内第一本があります。
2番目に古い海内第一本の方が、1番古い李祺旧蔵本より線が明瞭で見やすいため、日本だけでなく中国でも多くの人がこれを見て練習しています。
また、古来から人気の高かった九成宮醴泉銘は、たくさんの摸刻本(翻刻本)があります。摸刻本とは、誰かが九成宮醴泉銘を臨書して、その字を石に彫り、拓本にしたものです。これらは現代のように印刷技術が発達した時代においては無価値に等しいものです。新しく、見やすいのですが本物の字とは違うため注意しましょう。
九成宮醴泉銘を臨書するときに気をつけたい3つの特徴
ここからは九成宮醴泉銘を臨書するときに気をつけたい特徴を3つ紹介していきます。
九成宮醴泉銘のイメージといえば、「引き締まっている」「キリっとしている」といったものがあると思います。ポイントをしっかりおさえてもらえれば、こういったイメージを表現できるようになれるでしょう。
九成宮醴泉銘の書き方:ポイント①

気をつけたいポイント1つ目は、「向かい合っている縦線が内側にそるように書く」です。
これを背勢といいます。
背勢…向かい合う縦画が、たがいに反り返り、1字全体が引き締まった字形のもの。
向勢…向かい合う縦画が、たがいに外側に膨らみ、1字全体がゆったりと丸みを帯びた字形のもの。
上の画像を見てもらうと、九成宮醴泉銘は縦線が内側にそっているのがわかります。
九成宮醴泉銘の書き方:ポイント②

気をつけたいポイント2つ目は、「角度をつけて入筆し、穂先を明確に表す」です。
これを露鋒といいます。
露鋒…筆の穂先を点画の先端に明確に表す起筆。
蔵鋒…筆の穂先を点画の内側に包み込むように打ち込む起筆。
とくに、九成宮醴泉銘の起筆は角度が急になっています。
普段、行書やひらがなを書いている方だと角度がゆるい入筆に慣れてしまっているため、苦労されるポイントです。
九成宮醴泉銘の書き方:ポイント③

気をつけたいポイント3つ目は、「中心は引き締めて、外側の点画は長く協調」です。
九成宮醴泉銘は、文字の中心を「密」にし、外側をのびのびとさせることで引き締まった印象を醸し出しています。
九成宮醴泉銘の上達には道具も大切
ここまで九成宮醴泉銘の書き方を紹介してきましたが、上達するためには道具も重要になってきます。
作品を書く際、
「お手本のようになかなか上手に書けない…」
「筆が思うように動いてくれない…」
という方は、普段使っている筆と違う筆を試してみると良いかもしれません。
ちなみに、おすすめの書道筆は『【おすすめ】書道筆「小春」を紹介/使いやすさ・美しさを求めた書道筆【悠栄堂「小春」】』を参考にどうぞ。↓
最後に:石に彫られた文字を表現するのはむずかしい
最後に、だれもが疑問に思う点について触れておきます。
「こんな鋭い筆遣い実際にあるのかな?表現するのとても難しそう」
これらの碑の文字は、実際に書かれた文字の起筆や終筆、はね、はらい、点折の形状、字画の微妙な太さ、そのすべてがそっくりそのまま刻されているわけではありません。
そこには彫り方の思想が入り込み、書かれた文字の表現との間に微妙な差が必ず生じています。
起筆や終筆の角度の違い、画の尖端を鋭く残すかどうか、起筆や終筆に目をとめて送筆を弱勢にするか、逆に送筆を主と考えるかなどによって、彫り方に微妙な違いが生じます。
そして、それが書風として鑑賞されます。
九成宮醴泉銘が鋭いのは、筆で書いた文字のかきぶりを再現しようと試みながら、たんに形をなぞるのではなく、刻法で再現しようと試みているからです。
肉筆そのままの姿ではないにもかかわらず、北魏の字(造像記など)よりは肉筆的であり、刻字そのままの姿ではないにもかかわらず刻字的です。
つまり、肉筆に見られず、刻字にも存在したことのない、現実にはあり得ない姿をしているのです。
今回は、九成宮醴泉銘 を書くときに気をつけたいのポイント3つを紹介してきました。
ここまで紹介してきた3つのポイントに気をつけて書くことができれば、 「引き締まっている」「キリっとしている」そういったイメージどおりの表現ができるでしょう。