書家法帖

太宗皇帝とはどんな人物だったのか/代表作の晋祠銘・温泉銘も紹介

書家

唐の第2代皇帝太宗たいそうは、書道史上とても大きな影響を与えました。

九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんめいを建てさせたり、王羲之おうぎしの書を酷愛こくあいし、代表作品の蘭亭序らんていじょとともに埋葬まいそうされたりしたことはとても有名です。

今回はそんな太宗について、どんな人物だったのか、彼の代表作品も紹介していきます。

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太宗の基本情報

唐の太宗たいそう(598~649)は、初代皇帝李淵りえん高祖こうそ)の第2子で、いみな(生前の名前)は世民せいみんといいます。

幼いころから聡明で思慮しりょ深く、しかも決断力に富んでおり、ずい末(唐の1つ前の王朝)の混乱期には父李淵りえんに兵を挙げることをすすめ、長安を攻略、天下統一を成し遂げるという軍事的才能を発揮しました。

彼は軍事家的・政治家的な面と文化人的な面を兼ね備えた人物で、政治や戦の成果はもちろん、文化方面にも力をそそぎました。

もともとは北朝(北魏系)の出身なのですが、学問、芸術の分野では南朝(王羲之系)のものを採用し、南北文化の統一という文化政策を施行しました。

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太宗は教育を重視した

教育を重視した太宗は即位後すぐに弘文館こうぶんかん(学問所)を制置しました。

弘文館では、書が好きで素質があるものを選抜し、宮中の法帖を貸し出しました。

また、すでに70歳近くまでなっていた虞世南ぐせいなん欧陽詢おうようじゅんを弘文館学士として任命し、楷書を教えさせました。

こうして制置後十数年のうちには、書を善くする者が弘文館にあいついで入ったと言います。

唐代に楷書が一段と磨きがかかった理由は、このような文教政策が影響しているのかもしれません。

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太宗は儒教の解釈を統一した

太宗は儒教の経典の解釈を1つに定めることによって思想界の統一を行いました。

南北朝時代には経典の解釈も南北に分かれて対立していたので、太宗は孔子の子孫である孔頴達くようだつに命じて『五経正義』を編集させ、これを儒教の国定教科書としました。

その基本となったのは南朝の学問でした。

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太宗が行った政治的政策

政策面では、隋の制度を見なおして律令を体系化し官制をととのえ、税制を改革して財政を豊かにし、兵農一致の軍制を実行して、急速に平和な時代をもたらしました。

一方では、高句麗など国外への遠征にも勝利をおさめて国威を内外に示し、「貞観じょうがん」と称えられる一時代を出現させました。

唐時代が300年とつづくその土台は、太宗によって築かれたのです。

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太宗は書に関心が強かった

太宗は書は史陵しりょうに学んだといいます。

そして欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなんのような名家の影響もあって、王羲之の書を愛好し、太宗本人も行書を得意としました。

王羲之の作品の収集、複製を作った

太宗は書道史のなかで、国を挙げて王羲之の作品の収集に努め、さらにその複製を作成し、後世に王羲之の文字をのこした功績があります。

王羲之の作品の収集の際には、当時すでに偽物があったらしく、その鑑定には魏徴ぎちょう虞世南ぐせいなんが当たり、のちには主に褚遂良ちょすいりょうがその仕事を引き継ぎました。

また、収集した作品の複製の作成にも力を注ぎ、趙模ちょうも韓道政かんどうせい馮承素ふうしょうそ諸葛貞しょかつてい湯普徽とうふてつら搨書人に命じて精巧な複製を作らせました。

喪乱帖、寒切帖など王羲之関係の名蹟がすべてこのときに作られたもので、太宗が残した1つの大きな功績ということができるでしょう。

太宗が愛したのは楷書は楽毅論、行書は蘭亭序、草書は十七帖でしたが、とくに蘭亭序には執着が強く、太宗本人が亡くなった際には蘭亭序の原蹟とともに埋葬するよう命じたというエピソードはとても有名です。

王羲之の評価が書かれた文章はほとんどが唐代以降のものであり、王羲之を「書聖」と称えられるようになったのは、こうした太宗の導きがあったからなのです。

太宗は臨書の際に骨力神彩を重要視した

太宗は名蹟の臨書に努めましたが、臨書態度についてこう言っています。

「古人の書を臨する際、形勢(字形)はまねない。ただ原蹟の骨力(表現を支える内面的な力)を追求するだけだ。骨力が会得できれば、形勢は自然とついてくる」(『唐朝叙書録』)

また、

「学書のむずかしさは神彩(内面的な輝き)を得ることにある。を学ぶのは二の次だ」(『太宗筆意』)

というように、骨力神彩を重要視しました。

骨力神彩とはどういったものなのか、少し難しいかもしれませんが、中国の芸術・美学において本質とはといった技術的な面より、とかといった内面的なものにあるとされています。

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太宗の代表作品

太宗の代表作品2点を紹介します。

晋祠銘(しんしめい)

晋祠銘 右:題額 左:碑陽部分

晋祠銘しんしめい 貞観じょうがん20年(646)

山西省太原市の西南約25㎞の場所にある晋祠(晋国で祖で西周の唐叔虞の祠廟)の「貞観宝翰亭」内に現存しています。

碑身は194×121.5㎝で、文は28行、1行50字。

額題は、飛白ひはく体(書体の一種、線が波打っている)3行で「貞観廿年正月廿六日」と書かれています。

隋末の混乱の中で、太宗が父李淵りえんに勧めて兵を挙げたとき、この晋祠に武運を祈願しています。この碑はそれから30年後の貞観19年(645)12月、高句麗遠征から帰る途中に再び参拝し、神霊への感謝文を自ら作り、自ら書いて碑に刻ませたものです。

碑文は磨滅していて、さらに補刻を重ねているため原蹟本来のおもむきは失われてしまっています。ただし題額の飛白書は、いまもよくのこっています。

太宗は、碑石に行書を用いた最初の人であること、飛白体のもっとも古い作例をのこしたことで、よく名前が挙げられます。晋祠銘がこれにあたります。

温泉銘(おんせんめい)

温泉銘

温泉銘おんせんめい 貞観22年(648)

この温泉とは、陝西せんせい臨潼りんとう県の驪山りざん温泉のあるところをさします。

この碑については宋代の著録には記録されていますが、その後は出てこないことから、原蹟は早期に失われてしまったとされています。

しかし、1908年フランスのポール・ペリオ博士によって、敦煌石窟から搬出された古文書中の1つにこの温泉銘の拓本がありました。前半は欠失していますが、後半49行分のこの剪装巻子本せんそうかんすぼんがありました。

巻末の余白に「永徽4年(653)8月30日、囲谷府、果毅児」墨書記名があることで、遺例の少ない唐拓の1つであることが証明されます。碑が建てられてからわずか5年後の拓なだけに、とても見やすい貴重な拓本です。

拓本は現在でもパリ国立図書館に収蔵されています。

内容としては、太宗が健康を害したため毎年冬になると温泉療養に行きました。そこの温泉を賛美した文を作って、自書して碑に刻しました。

この温泉銘からは、太宗の書法の根底には王羲之の書法があることをうかがえます。

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