今回は、「初唐の三大家」の一人、褚遂良について解説し、彼の代表作である雁塔聖教序について内容や書風、特徴などを解説していきます。
褚遂良について
雁塔聖教序の書者、褚遂良〈開皇16年(596)~顕慶3年(658)〉は書を学ぶ人にとって、虞世南、欧陽詢と並ぶ「初唐の三大家」と呼ばれている書人です。
彼は隋王朝の文帝の開皇16年(596)に、銭塘(現在の浙江省杭州)で生まれました。
中国における書の名手は、同時にその時代を動かしてきた政治家や学者でもありますが、褚遂良も例外ではなく、唐の建国期を支えた重臣でした。雁塔聖教序には「中書令」「尚書右僕射」という官職が記されています。どちらも褚遂良が歴任した官職で、二碑に記されている官位が同時期なっている点については諸説あります。唐代においては宰相という長官クラスの要職です。
褚遂良の父、亮も太宗の信任をうけ、有能な文学の士「秦府一八学士」の一人として、弘文館学士・散騎常侍などの要職を歴任した人物でした。先に述べた欧陽詢・虞世南は二人とも褚遂良より30歳以上高齢でしたが、 褚亮の同僚であり、親しい友人だったので、褚遂良は幼いころから付き合いがあったと考えられています。
雁塔聖教序について
「雁塔聖教序」は陝西省西安市南郊の慈恩寺境内にある大雁塔にはめ込まれた「大唐三蔵聖教之序」碑と「大唐三蔵聖教序記」碑の2つの碑をあわせた総称で、「慈恩聖教序」とも呼ばれています。
双方とも碑身(文字が書かれている部分)は、高さ約1,98メートル、上幅85センチもの大きさがあります。
また、この両碑の素材には、黒大理石という良質な石が使われています。
現在、陝西省西安の慈恩寺境内で見られる大雁塔は7層のかなり大きな塔ですが、これは後の時代に建て直されたもので、現在、雁塔聖教序の二碑は南面入口の左右に配置されています。
「雁塔聖教序」が建てられた理由
唐王朝の初期は政情が不安定で、人々は苦しい生活をしいられました。心のよりどころとなる仏法もインドから伝わるうちに変質し、教えの基となる経典類も不足し満足な教えができませんでした。
孫悟空が活躍する「西遊記」でおなじみの三蔵法師こと、玄奘(602~664)は、この状態を心配して国禁を犯してひとりでインドへと旅立ちました。
その後、約17年にわたり旅をつづけた玄奘は、貞観19年に仏典657部を携え、帰国しました。
玄奘は罪に問われるどころか、太宗に厚くもてなされました。
玄奘は経典の漢訳に当たり、皇帝と皇太子から序文を与えられました。太宗の「大唐三蔵聖教之序」と高宗の「大唐三蔵聖教序記」です。大雁塔建立の際に、その文を2つの碑に刻して安置することを願い、その後、最上層の石室に二碑が置かれました。これが雁塔聖教序です。序と序記の文は、ともに貞観22年に贈りましたが、両方の碑ができたのはそれから5年後の永徽4年(653)、褚遂良58歳のことでした。
序と序記のちがい
「雁塔聖教序 」は「大唐三蔵聖教之序」碑と「大唐三蔵聖教序記」碑の2つの碑の総称ですが、では、「序」と「序記」というものには、何か違いがあるのでしょうか。
- 「序」とは、一般にものごとの次第を順位立てて述べる文体のこととされています。
- 「記」とは、客観的に事実を書く文体のこととされています。
- また「序記」とは、人物に関する事実を客観的に叙述したものの意味で使用される文体であり、「序」と「記」が重なってできた文体とも言われています。
つまり、文体の上から言えば、「序」と「序記」は違うものとなるのです。
「雁塔聖教序」の雁塔とは?
「雁塔」の名前は玄奘 の「大唐西域記」に、『自分たちに肉を施すために自殺した雁の話を聞いた僧たちが感銘をうけて、死んだ雁を塔の下に埋めた』とあることに由来しているとされています。
「雁塔聖教序」の内容
「聖教」とは、尊い仏の教えという意味です。
これに「序」がついて「聖教序」になると、新しく訳された仏教論に対して皇帝から下された序文のことをいいます。
「大唐三蔵聖教之序」の内容は、まず初めに仏教の教理を説き、次に仏教の経緯を述べ、最後に玄奘の人徳をその業績を讃えます。
「大唐三蔵聖教序記」は、高宗が父帝である太宗の仏教に対する見識と、玄奘の経典翻訳事業の功績を述べたものです。
「雁塔聖教序」の書風・特徴
一般に楷書作品とされていますが、多くの部分で行書の特徴とされる点画の連続がみられます。細身の点画の中で抑揚をつけ、緩急、肥痩、強弱の織りなす多彩で粘りのある線質、余白を大きくとりこんだ豊潤な風趣。
さらに、「無」字に見られるような起筆の時の蔵鋒も特徴となっています。
このように、単なる楷書書法の一典型として縛られないところが魅力であり、特徴となっています。