中国唐の第2代皇帝・太宗(598~649)は、即位時にはまだまだ全国統一にはほど遠かった唐王朝を1代で世界帝国に築き上げていった名君主です。
そんな彼は書道にも関心が強く、特に王羲之書法に心酔し、貞観年間(627~649)に、勅命をくだして王羲之の書跡を収集しました。
その結果、2000紙を超える多くの王羲之の書跡が集められましたが、最高傑作として最も評判の高かった蘭亭序だけは行方がわからず、これを手中に収めることができませんでした。
今回紹介する『蘭亭記』には、唐時代初期の名君主の太宗が、いかに王羲之の書の絶対的な信奉者であったかを象徴する「蘭亭序をだまし取ってこさせた」、という有名な逸話が書かれています。
蘭亭記(らんていき)について
蘭亭記は、唐の何延之が撰したもので、太宗が王羲之の「蘭亭序をだまし取ってこさせた」、という逸話が記されています。
太宗が亡くなってから65年後に書かれており、蘭亭記には虚飾が多いと言われていますが、もし虚飾があるとすれば、その虚飾には皇帝の政治的意図が反映されていると言われています。
蘭亭記がよく知られるようになったきっかけは、唐の張彦遠によって書論の集大成ともいうべき『書法要録』に収められたこと、また、宋の李昉らが勅命を受けて編した筆記類の百科事典ともいうべき『太平広記』に採られたことが大きく影響していると思われます。
蘭亭記の現代語訳
「蘭亭序」は東晋の王羲之が穆帝の永和9年(353)暮春の3月3日、山陰(現在の浙江省紹興市)の蘭亭に、名士41人を招き、祓禊の礼を修め、筆をふるって書いた序文で、蚕繭紙、鼠鬚筆を用い、力強いだけでなく、しなやかに、そしてすこやかに書かれた絶品である。この中には「之」という字が最も多く、20個ばかりあるが、どれ1つとして同じものがなく、神の助けがあったとされた後日、王羲之はさらに数十本、数百本と書いてみたが、祓禊の当日書いたものには及ばなかった。だから彼はこれを宝として重んじ、子孫に代々伝えていくよう言いつけた。
そして「蘭亭序」は第7代目の孫の智永に伝わった。智永は王羲之の第5子・徽之の後裔で、出家して永欣寺の住職となっていた。永欣寺の命名者は梁の武帝で、智永とその兄の恵欣から一字ずつ取って名付けられたという。智永は100歳近くまで生き、臨終にあたって「蘭亭序」を弟子の弁才に託した。弁才は俗姓を袁氏といい、梁の司空であった昂の玄孫である。弁才は寝室にしていた方丈の梁に隠し穴をあけ、そこに「蘭亭序」を入れ、先師の智永よりもさらに大切に保管した。
時移って唐の貞観年間(627~649)、太宗(唐の第2代皇帝)は執務の合間に学書にはげみ、とりわけ王羲之の書法を好んで、臨書をするとともに、全国から王羲之の書跡を集めさせたが、ただ「蘭亭序」だけが手に入らない。そこで調べさせたところ、弁才のもとにあることがっわかり、弁才を呼びよせ、「蘭亭序」のことを質問したが、弁才はしらばっくれるばかり。残念ながらそのまま弁才を帰すよりほかなかった。だが何度調べさせても弁才のところにあることは間違いないようで、さらに2回弁才を読んだがらちがあかない。業を煮やした太宗は侍臣に、「誰か策略をめぐらせて取ってこれる者はおらぬか?」と問うと、尚書右僕射の房玄齢が、「梁の元帝の曽孫という監察御史の蕭翼なら必ずや取ってまいるでしょう」と奏してきた。こうして蕭翼は弁才のもとに派遣されることになり、太宗から二王(王羲之・王献之)の雑帖を3通ばかり借りて旅立っていった。
蕭翼は商人に身をやつし、弁才のもとへやってきた。2人はすぐにうちとけ、風雅な遊びに興じ、学問を論じ、詩作のやりとりをして夜通し楽しんだ。それから後も蕭翼はたびたび弁才を訪ね、2人の仲はみるみる深まっていった。そんなある日、蕭翼は梁の元帝の手になる『職工図』を弁才に見せ、そこから話題を書画に向けてこう言った。「私の家は代々二王の書法を伝えております。今も数帖携えて来ており、宿に置いてあります。」弁才はよろこび、見せてくれと言う。翌日、蕭翼は太宗から借りてきた二王の雑帖を弁才に見せた。はたして弁才は、「これはこれでまあまあの作ですが、さほどのものではないですな。私の持っているのはただものじゃありませんぞ」と言い、とうとう「蘭亭序」を蕭翼に見せてしまった。蕭翼はもちろん本物だとすぐにわかったが、何くわぬ顔をして摸本であると言い切った。弁才はそんなはずはないと言い返したが、蕭翼は摸本だと言いはり、その日はけりがつかなかった。
蕭翼に「蘭亭序」を見せてから後、弁才はもはや梁の隠し穴に「蘭亭序」を入れることはせず、蕭翼が持ってきた二王の雑帖とともに机の上に置くようになり、毎日臨書をくり返していた。そこで蕭翼は弁才の留守をねらって入りこみ、「蘭亭序」を二王の雑帖ともども持ち去り、そのまま永安駅へ向かった。そして駅長に、「私は御史である。勅命を奉じてやってきた。都督の斉善行に報告せい」と告げた。斉善行は農民軍をひきいて唐にはむかった竇建徳の妹婿であったが、今では唐に降り、上柱国金印紱綬を授けられ、真定県公に封ぜられている。その斉善行はすぐにやってきて、蕭翼から事情説明を受けると、使者をやって弁才を召した。御史のお呼びだということで出先からかけつけた弁才は、その御史があの蕭翼だと知ってびっくり仰天。そんな弁才に蕭翼は、「勅命を奉じ、『蘭亭序』を取りにまいった。『蘭亭序』は今やわが手中。よってあなたを呼びよせ、ここにいとまごいをいたす」と言いはなった。弁才はこれを聞くや卒倒してしまい、しばらく起きあがれなかった。
こうして「蘭亭序」は太宗の手に入った。太宗は搨書人の趙模、韓道政、馮承素、諸葛貞らに命じておのおの摸本を数本ずつ作らせ、皇太子、諸王、近臣に賜った。そして貞観23年(649)、太宗が崩御し、当時皇太子であった高宗に遺言して、「蘭亭序」を自らの墓に埋めさせた。
この話は私(何延之)が長安2年(702)、弁才の弟子である玄素から聞いた話である。玄素は俗姓を楊氏といい、もともと漢の大尉の家柄で、6代の祖の佺期が東晋に反旗をひるがえした桓玄に殺された後、子孫は江東にのがれ、山陰を本籍地としている。この楊氏は私の母の実家の親戚でもある。
甲寅(714)の3月3日にあたり、昔日の蘭亭の雅会に思いをはせつつこれを撰した。