九成宮醴泉銘は、魏徴が文章を作り、欧陽詢が文字を書きました。
九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳を紹介します。
また、九成宮醴泉銘の書き方・臨書のコツなどはこちらで詳しく解説しています。↓

九成宮醴泉銘の全文現代語訳/日本語訳
貞観6年の初夏4月、皇帝は九成宮に避暑なされた。これはつまり隋の仁寿宮である。山の頂きに宮殿を高く構え、谷をせきとめて池をつくり、水をまたいで橋をかけ、岩山を分けて宮門をそびえたたせる。高閣はめぐりたち、長い廊下は四方に走り、さまざまな建物がはるかに続き、高殿が高低いり乱れて建つ。仰ぎ見れば、その高くそびえる様は百尋(長さの単位、一尋は1.8m)ばかり、見おろせば深くはるかなことは千仞(高さの単位、一仞は2mあまり)もあるほど。真珠や璧玉が照り映え、金と碧が輝きを競うかのようであり、雲霞を灼けつくすように照らし、日月を覆い隠さんばかりである。このように山を移し、僩をめぐらして、贅沢を極め、多くの人を自己の欲のまま従わせたのを観れば、大いに心とがめるが、金をも溶かす炎天にも、蒸し暑さとてなく、微風が静かにそよぎ、清らかな涼しさがあるのに至っては、まことに体を休めるのによい所であり、まことに心を養うのに勝れた地である。漢の甘泉宮でさえも、この点ではかなわないだろう。
太宗皇帝は、20歳にして尚書令として天下を治め、30歳となると帝位に即位され、たくさんの民を安んじ治められた。はじめは武功でもって天下を統一し、のち文徳(武力ではなく、学問によって)でもって遠い国の人々をも懐けられて、東は青丘を越え、南は丹徼を越える国々まで、みな宝物を献上しその土地の物産をささげ、通訳を重ねて来朝し、西は輪台に及び、北は玄闕に至るまで、みな土地はわが中国の州県の1つとなり、人々は戸籍に編入されたのである。気候は穏やかで、4時は順調に循り、近きは安らかで遠きはつつしみ、生きとし生けるものみな生を全うし、天のめでたい贈り物がことごとく至った。これは天地の功によるものではあるが、つまるところ、天子の思し召しのおかげである。我が身を忘れて万物を利し、風に櫛けずり雨に沐し(濡れる)、民衆を思いやって、その憂い(心配)のあまり病いとなられた。それは堯帝が政治の疲れの為に皺だらけになったことに同じく、禹王が治水(洪水にならないよう)に駆け回って足を痛めたこと以上である。そして何度も治療されたが、なお肌には張りがなく病気は思わしくなかった。
皇帝は京師の宮殿におられ、いつも夏の激しい暑さに疲れられた。そこで群臣は離宮を建てて心をやすめ静養されることを願ったが、陛下は一夫の労力をも大切にされ、十家の財産をも惜しまれて、かたく拒んで、承知しようとされなかった。そこで考えられたこのには、隋氏の旧宮である仁寿宮は、前代に作られたものであり、これを棄ててしまうのはまことに惜しく、また壊すのは労力を重ねることとなる。ものごとは、旧いものに循うのを大切にするべきであり、どうして改めて作る必要があろうか、とのことであった。そこで華美な彫刻を削って質素なものとし、削り去った上にさらに削り、贅沢なところや過度なものを取り去って、また崩れている所は葺きなおした。その結果、丹塗りの墀に砂や小石をまじえ、白い壁に泥をまじえて、玉を敷きつめた石畳が土の階段に接し、茅葺の建物が玉で飾った宮室に続くこととなった。仰いでその壮麗さをみては、滅び去った隋の代をおのれのいましめとすることができ、俯して倹素なさまをみては、教えを後世に示すに足るものである。これはいわゆる「至人は為す無く、大聖は作さず」ということであり、かの隋の文帝(隋の初代皇帝)がその力を尽くしたものを、わが太宗皇帝が享受するというわけである。
ところで、旧時の沼地はみな谷川の水を引いてきたものであり、この九成宮の城内にはもともと水源がなかった。求めようにも無いのが、この水であったのであり、人の力ではどうしようもないものであったが、皇帝はこのことを心に懐い、忘れられなかった。さて4月16日のこと、皇帝は皇后とともに、城内の建物を見て回られた。西城の下を散歩し、高閣の下に立ち止まって、うつむいてその土をご覧になったところ、かすかに湿り気があるのを感じられた。よって杖で突きさすと、泉がそこから湧きだしたのであった。そこで石の井桁でその泉を囲んで水を溜め、その水を引いて水路を作った。その清らかさは鏡のよう、味の良さは醴のようであった。水は南に丹霄殿の右に注ぎ、東に流れて双闕をこえ、青瑣をつらぬいて流れ、紫房をめぐりとりまいて、清波をはげしくたてて流れ、きずやけがれを洗い去る。その水は正性を導き養うことができ、心を清め磨くことのできるものであり、様々な形をありのままにうつし出し、万物を潤しはぐくむ。それは天地の恵みが尽きないのに同じく、皇帝の恩沢が絶えないのに等しい。このことはただ天の精華であるばかりではなく、思うにまた地の宝でもあるのである。
謹んで考えてみるに、『礼緯』には「王たる者の刑罰が罪に相当するものであり、恩賞が功にふさわしいものであって、それらが礼法にかなったものであれば、醴泉が宮中の庭に湧き出る」という。『鶡冠子』には「皇帝の徳が上は天に及び、下は地に及び、中は万物に及べば、醴泉が出る」という。『瑞応図』には「王たる者の心が、純粋でおだやかであり、飲食物を献上させたりしなければ、醴泉が出て、それを飲めば長生きすることができる」という。『東観漢記』には「光武帝の中元元年(56)に、醴泉が京師に出た。これを飲んだ者は、永年の病気がみな治癒した」という。してみると、このような瑞祥があらわれたのは、まことに太宗皇帝を扶けるものであり、その永年の病気を除くことができるうえに、さらにその長寿をのばすこととなろう。
かくして公卿百官が駆けつけて、大いに驚いたが、我が皇帝は賢く謙遜の心をいだき、自らの美徳によるものだとはされなかった。たとえ美徳とされようとも、美徳だと自負してはならぬ、ということは、ただいにしえに聞くばかりのものではなく、また瑞祥を戒めとする、ということは、いまこの時にその実例を目のあたりにした。これこそ天帝の降した瑞兆であり、天子の美徳であって、どうして私ののような浅学の者が、世のなかをはっきり見ることができるものであろうか。しかし、私の職務は天子の発言を記しておくことであり、その職に属してことを書しておかねばならない。国家のこの盛美を、記録に書き落としてはならないのであり、あえてありのままを述べ、ここにこの銘をきざむのである。
詞にいう、皇帝は帝位につく運りあわせを手に入れて、天下を統一された。皇帝がこうして千載一遇の時にあたって帝位につかれると、万物は感応し、仰ぎ見てたたえた。その功績はかの大舜(儒教の聖人)よりも高く、懸命に勤め励まされたことは、かの伯禹(伝説上の聖王)以上である。まさに空前絶後、三皇に達し、五帝にまさるものである。
天下のかなめを握り、人の道を守られたことは、これこそ聖これこそ神といえるもので、武威をもっては天下の混乱をおさめ、文徳をもっては遠き辺境の民族をなつけられた。古い記録にも記されず、開闢(世界の始まりの時)以来、家来として主君に服従したことのなかったものも、みな我が中国の公的な服装をして続々と来朝し、献上された宝物、地元の物産がたくさん並べられた。
大いなる道に名づけるべき名などなく、最上の徳は自らに徳があるとはしない。奥深い天のわざは、ひそかに運りゆきわたり、そのかすかなことは測り知れない。民は井戸を掘っては水を飲み、田を耕しては食べるが、天のめぐみに感謝するものもなく、どうしてそうした満ち足りた生活が天子のおかげであることを知ろうか。
天のなすわざには匂いも音もないが、万物はそれをもととして始まり、それぞれの形をうけて広がった。聖人が世に出たことに感じて、すべてはその性質をかえ、またその徳に応えて不思議なしるしが現れた。それは音に応する響きのようにはっきりしており、盛んで明らかなものであった。
(昔からすぐれた治世には)天は次々と大きな幸いを降し、盛んに多くの福をあらわした。雲氏・竜官、亀図・鳳紀をはじめ、日が5色の光を含み、3本足の鳥があらわれるなど、楽人はそれをほめたたえて歌うのをとめることなく、史官はその記録に筆をやすめることができないほどであった。
最高の善には天は幸いを降し、最高の智者たる聖王はそれに喜ぶ。醴泉の水は低きに流れて地を潤し、さらさらと流れてけがれがない。ほとりに生える水草の味は旨く、水の醴にょうに甘く、また氷や鏡を思わせるほど清らかで澄みわたっている。いくら用いようと日々に新しく、汲めども汲めども尽きることがない。
道はその時どきに従ってやすらかに通じ、天の降す幸いは泉とともに広く流れ及ぶ。しかし我が皇帝はつねにおそれ慎まれて、美徳とするに値することも、そうは考えられない。粗末な住まいを尊び、楽しみにもはめをはずすこととてなく、天子の乗るにふさわしい立派な黄屋の車も欲しがることなく、天下をもって憂えとなされた。
前人は華美をもてあそんだが、我が皇帝は質素を大切にし、すなおで飾りけがない本来の姿もどして、文を質にかえられた。高いところに居ては、墜ちはしないかと懸念し、満ち満ちたものを持っては、溢れはしないかと戒めつつ、このことを常に思い、行い、いつまでも正しい道を保っていれば吉を得るであろう。
九成宮醴泉銘について詳しく学ぶ
九成宮醴泉銘について、歴史的背景や書き方・臨書のコツなどを詳しく知りたい方は、
「九成宮醴泉銘について解説/臨書の書き方のコツは?気をつけたい3つの特徴を紹介【書道のうでまえアップ】」
をご覧ください。
