王羲之は衛夫人と叔父の王廙に書を学びましたが、2人とも鍾繇の楷書を習った書家です。
このことからいえば、王羲之の楷書は鍾繇をもとにしており、「鍾派」に属するのです。
王羲之が生きた東晋時代のすぐあと、南朝時代においても王羲之の筆跡は尊重され、王羲之の楷書作品は十数編ありましたが、そのほとんどが先人の文章を抄写したものでした。
唐時代には「楽毅論」「黄庭経」「東方朔画賛」の3つの小楷がもっとも有名で、現在ではその刻本が伝わっています。
楽毅論
楽毅論は、魏の夏侯玄(字は秦初)が作った文章で、戦国時代の燕国の名勝であった楽毅の戦功を称えたものです。
言い伝えによると、王羲之はこれを自分の子供の「官奴」の手習いのために書いたとされます。
しかし、この「官奴」が王義之の何番目の子供なのかははっきりせず、いまでも謎となっています。(『宣和書譜』巻16に官奴は王献之の幼名と書かれているが、異説もある)
南朝・陳の時代には、王羲之の7世の孫にあたる智永が楽器論を見て「正書の第一」と称賛しました。
智永はまた、梁時代にはすでに摸本は流布していたと述べています。
唐時代の褚遂良は宮廷に収蔵されている王羲之の墨跡を鑑定し、収蔵品の中で楽器論を真跡と認定しています。
唐の太宗は弘文館の搨書手(書跡の複製をつくる職人)である馮承素に命じて6本の複製をつくらせ、長孫無忌、房玄齢、高士廉、侯君集、魏徴、楊師道の6人の重臣に与えました。
楽器論の刻本は数多く伝わっていますが、南宋時代につくられた「越州石氏本」が有名です。
黄庭経
黄庭経は、魏・晋時代に流行した心身の養成法を説く道教の経典です。
王氏一族は代々道教を信奉していました。
王羲之は好んで丹楽を服用し、官を退職した後は浙東の名山に遊び、薬石を採集したといいます。
黄庭経の真跡ははやくになくなっていた
梁時代の道士、陶弘景は書家としても知られ、王羲之の書について深い知識をもっていました。
そんな彼が武帝に黄庭経の真跡が宮中に収蔵されているかどうか尋ねています。
当時すでにその真跡がどこにあるのか分からなくなっていたのです。
台北故宮博物院に所蔵されている墨跡本の黄庭経は硬黄紙に書かれた臨本です。
多くの刻本があるなかで「潁上本」は褚遂良の時代の摸本にもとづくものといわれます。
東方朔画賛
東方朔画賛は、西晋時代の名士、夏侯湛が撰した文章です。
前半は序文、後半は4字を1句とする賛語から成ります。
東方朔という人は、漢の武帝の側近としてユーモアによって武帝を諫めたひとです。
後世、彼は「道徳は潔くして言動は汚く、内面は清らかにして外面は濁っていた」といわれています。
唐・宋時代の宮廷には東方朔画賛の墨跡が所蔵されていましたが、その後は刻本のみが伝わっています。
なかでも定評のある「越州石氏本」は筆画がよく引き締まり、字形はやや傾いています。
王羲之と鍾繇の違い
王羲之と鍾繇の楷書には大きな違いがあります。
鍾繇の楷書の筆画には隷書の用筆からくる、ひつがえるような用筆があります。字形は横に長く縦に短い扁平な字形をしています。
王羲之の楷書はそのような筆づかいは少なく、進行方向に向かってまっすぐ運筆し、縦長の字形をしています。
鍾繇と王羲之とでは筆づかいや字形がおおきく違うのです。
こうして両方の楷書を比べてみると、王羲之の楷書のスタイルは新しく、華麗で力強くみえます。
鍾繇が生きていた初期の楷書に残る隷書の雰囲気を取り除き、楷書の書法を近代の書体の段階に押し上げたということができるでしょう。