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蘇軾(そしょく)とはどんな人生を歩んだ人だったのか、書風の特徴も解説

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こんにちは、中村です。

蘇軾(そしょく)はそうの時代の特に優れた文学者であり、政治家、書家、画家です。

中国の歴史全体から見ても、一流の人物といえます。

今回は、そんあ蘇軾について紹介し、書風の特徴も解説していきます。

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蘇軾の人生

蘇軾そしょくは北宋の景祐3年(1036)に、眉州(四川省眉山びざん県)で生まれます。

あざな子瞻しせん、よく別名で使われる蘇東坡そとうば雅号がごうです。

父のじゅん、弟のてつとともに「三蘇」と呼ばれています。
3人とも文章に優れ、唐宋八家の中に位置づけられています。

嘉祐かゆう2年(1057)には、弟のてつとともに科挙かきょに合格し、進士となりました。

進士になると、鳳翔府ほうしょうふ僉判せんはんから、やがて中央官庁に入り、司馬光しばこうの旧法党に加わりました。

神宗しんそう(北宋の第6代皇帝)のときに、王安石おうあんせきの新法党との党争に敗れた結果、蘇軾が書いた詩に国政を悪く言った内容が書かれていたことが理由で、捕らえられて殺されそうになります。

しかし、神宗皇帝が蘇軾の才能を惜しみ、罪が軽減され、地方(黄州)への左遷させんだけとなり、地方官を転々としました。

神宗の死後、哲宗てつそう(北宋の第7代皇帝)の政治の見直しによって、旧法党が復権したことから蘇軾は政治の中枢に復帰しましたが、司馬光が亡くなると、旧法党が3党に分裂し、そのうちの蜀党しょくとうの党首となって苦労したそうです。

元祐げんゆう7年(1092)には、礼部尚書れいぶしょうしょ端明殿たんめいでん翰林かんりん侍読じとう学士がくしという要職につきますが、2年後には章惇しょうとんらの新法党に政界を支配されると、恵州(広東省)へ左遷され、さらに昌化軍(海南島)へ流されました。

元符げんぷ3年(1100)、徽宗きそう(北宋の第8代皇帝)が即位すると、許されて中央へ戻されることになりましたが、戻る途中で病気が原因で亡くなりました。66歳でした。

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蘇軾はどんな人だったのか

蘇軾の人生は、政界での浮き沈みは激しく、波乱の人生でしたが、儒家思想の影響を強く受けた知識人であり、思うようにならない不遇があっても精力的に活動しました。

蘇軾は民衆の苦しみに関心を持っていて、地方官を務めていた時には、人々の生活がよくなるように施策を考え実行し、今でもその人柄は称賛されています。

浙江せっこうこう州にある西湖の蘇堤そてい(人口堤防)は、蘇軾が残した偉大な功績で、西湖では南北にわたる蘇堤の美しい景色が楽しめます。

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蘇軾の書風の特徴

蘇軾は当時の風潮と同じように顔真卿がんしんけいの影響を受けています。

若いころは二王(王羲之おうぎし王献之おうけんし)の字を学び、中年になってから顔真卿の字を学び始めました。

蘇軾の書風の特徴として、字形はひらたく、斜めで、文字の上部が重く下部が軽い(上部はゆったりして下部が引き締まっている)と言えます。

さらに、線は肉付きがよく、ゆったりとした風格があります。

しかしその中にも厳しさが感じられます。

先人の述べるところによると、蘇軾の筆の持ち方は他の人と違うと言います。

親指と人差し指で筆の軸を持つ、いわゆる「単鈎法たんこうほう」で、現在のペンの持ち方に近かったと言います。

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