三筆とは、平安時代初期に書をよくした3人(空海・嵯峨天皇・橘逸勢)をまとめた呼び方です。
では、空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人とはどんな人物だったのでしょうか。
また、他にも書をよくした人はいたであろうにどうしてこの3人が挙げられるようになったのでしょうか。
今回は、3人のついてとその代表作品を紹介し、書風の特徴も解説するとともに、どうしてこの3人が挙げられるようになったのかも紹介します。
三筆とは/その代表作品を紹介
三筆とは、平安時代初期(9世紀ごろ)の約100年間の書を代表する3人をまとめた呼び方であり、その3人とは空海(774~835)・嵯峨天皇(786~842)・橘逸勢(?~842)の3人をあわせた呼び方です。
三筆という大きな名前から「日本の書道史上(全体で)、書が上手かった人の中で最も優れた3名」と紹介されることがありますが、数百年もの歴史の中で最も優れた3人が平安初期に集中しているはずがないので誤りと考えるべきでしょう。
また、空海の書いた筆跡は多く伝わっているのですが、嵯峨天皇・橘逸勢の筆跡は少なく、書の上の真価を求めることは難しいとされています。
それでは、3人それぞれについてと代表作品を紹介していきます。
空海についてと代表作品
空海は真言宗の開祖として有名ですが、書をよくした人としてもよく名前が挙げられます。
「余、少年のとき、しばしば古人の筆跡を臨せり」
と言っているように、すでに少年期のころから文字の練習に取り組んでいました。
さらに空海は遣唐使の船に同乗して中国(唐)に渡っています。
空海は唐に渡り、当時唐で流行していた王羲之の書法を学びました。
空海の代表作品として挙げられるのが「風信帖」です。そのほかの作品には、「灌頂歴名」や「金剛般若経開題」などがあります。
空海についてはこちらで詳しく解説しています。↓
嵯峨天皇についてと代表作品
嵯峨天皇は名前の通り平安時代の天皇です。
嵯峨天皇は先に紹介した空海より10歳若く、書は空海から学んだと伝えられています。
特に書においては関心が強く、空海からは中国の名品のかずかずの献上を受けており、中国風の書に見識がありました。
現存する筆跡からも、それら中国書法や空海の書風が感じられます。
嵯峨天皇の代表作品としては「光定戒牒」が挙げられます。
橘逸勢についてと代表作品
橘逸勢は、先に紹介した空海とともに遣唐留学生として中国(唐)に渡っています。
唐の文人たちからその才能を称して「橘秀才」と呼んだといいます。
橘逸勢の代表作品としては「伊都内親王願文」が挙げられます。
三筆の書風の特徴
空海・嵯峨天皇・橘逸勢の書風は、一言でいうと「中国風の書」です。
当時の中国の王朝名は「唐」です。遣唐使の船は中国からたくさんの法帖を日本に持ち帰りました。
その中でも圧倒的に渡来が多いのが王義之の書法です。
というのも、当時唐においては太宗皇帝をはじめ、宮廷を中心として熱狂的に王羲之の書跡が尊重されていました。
太宗皇帝は王羲之の書の収集にとりくみ、その真跡の複製もすすめたり、その集めた王羲之の文字をつかって「集王聖教序」を作ったりと、とても書に関心の強かった皇帝です。ちなみに楷書の「九成宮醴泉銘」を作らせたのも太宗です。
そんな唐王朝における王羲之を尊重する傾向は、当然ながら日本からの遣唐使や留学生・留学僧たちにも大きな影響を及ぼしたのでした。
どうして「三筆」は空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人なのか
この空海・嵯峨天皇・橘逸勢はどうして「三筆」と呼ばれるようになったのでしょうか。また、どうしてこの3人なのでしょうか。
どうしてこの空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を挙げたのか、確かな情報は明らかではありませんが、おそらく『夜鶴庭訓抄』などが参考にされたと考えられています。
「三筆」と呼ばれ始めたのは江戸時代からだった
「三筆」という言葉が見えるのは江戸時代の元禄2年(1689)、貝原益軒(1630~1714)が編集した『和漢名数』が最も古い文献です。
『和漢名数』は、中国と日本の典故・人物・事跡が書かれており、児童の教育に用いられました。
そこには「本朝能書三筆 嵯峨天皇 橘逸勢 僧空海」と書かれています。
この『和漢名数』より古い文献には見あたらないので、江戸時代に入ってからの呼び方と考えられています。
これが今日、「三筆」として空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を通称するようになったのです。
「三筆」の3人を選ぶ参考にされたと考えられる『夜鶴庭訓抄』について
「三筆」の3人を選ぶ参考にされたと考えられる『夜鶴庭訓抄』とは、平安後期の貴族・藤原伊行が娘(建礼門院右京大夫)のために、先祖から受け継がれてきた口伝を書き与えたという書物のことです。
この本の終わり近くに「能書人々」という項目があり、これは平安朝400年の間に活躍した能書の名前を列挙したものです。
能書とは、書に優れていた人のことをいいいます。
能書の名前は全部で24人挙げられているのですが、このなかに空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人も含まれています。
また、巻末近くの「内裏額書たる人々」という項目で、平安京の宮城の額や扉、返牒・御表・色紙形・願文を揮毫する仕事を任せられた人たちの名前が書かれています。
- 額は、内外十二門(平安京の宮城の外郭の12の門)の門額。または天皇・皇后や法皇・女院、あるいは摂政・関白らが祈願をこめて建立する寺の額。
- 扉は、同じく祈願をこめて建立された寺の扉のこと。
- 返牒とは、外国に対する国書の返信。
- 御表とは、摂関家が天皇に差し出す辞表のことで、上表文ともいう。
- 色紙形とは、屏風や障子に色紙の形に切った紙を貼ったり、色紙の形を描いて彩色などを施して、詩、歌、文などを書いたもの。
- 願文とは、寺で行う供養のを祈る文章のこと。
これらは当時の能書たちが、一生涯の誇りをもって筆をふるう重要な仕事でした。
そのなかでも最も重要だったのは、内外十二門の額の揮毫です。
『夜鶴庭訓抄』では、内外十二門の額の揮毫者として、空海・小野美材・橘逸勢・嵯峨天皇の名前を挙げています。
4人挙げられたうちの空海・嵯峨天皇・橘逸勢は同世代なのに対して、小野美材(?~902)は60年ほどあとの人でした。
このことから、『和漢名数』を編集した貝原益軒は、『夜鶴庭訓抄』の記載を参考にして、空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人を「三筆」としたのではないかと考えられるているのです。
「三筆」のほかにもある「三〇」という呼び方
「三筆」のほかにも、3人のメンバーの組み合わせかたを変えて「三聖」「三賢」「三跡」などという呼び方もあります。
平安時代においては、早くも当時から空海・菅原道真・小野道風の3人を「三聖」と呼んでいました。
これは先にも紹介した平安後期の貴族・藤原伊行の『夜鶴庭訓抄』という書物の最巻末に見えるものです。
このことから、3人の能書をあわせた呼び方は、すでに平安時代11世紀のはじめのころにはされていたということが分かります。
しかし、3人の組み合わせまたは呼び方は、時代によって少しづつ変動があったようです。
たとえば、鎌倉時代の末期、尊円法親王(1298~1356)の書論『入木抄』によって「三賢」という呼び名があり、小野道風・藤原佐理・藤原行成の3人が挙げられるようになります。
室町時代に入ると、三条西実隆(1455~1537)らの手によって、小野道風・藤原佐理・藤原行成の3人のメンバーは変わらないのですが、「三賢」から「三跡」という呼び方に変わり、現在に至ります。
ところが、今回の「三筆」という言葉が見えるのははるかに時代が下って、元禄2年(1689)江戸時代中期のころになってからなのです。