空海(774~835)は歴史の教科書で真言宗の開祖として習いましたが、書道においても日本を代表する行書の名手としても有名です。
今回は、書道の面から空海について解説し、彼の代表作品も紹介します。
空海は「三筆」に加えられるほど書がうまかった
空海は真言宗の開祖として有名ですが、日本の書道史においてもかなり大きな影響をおよぼした人物でもあります。
その証拠として、空海は平安時代特に書法にすぐれた名手「三筆」として、嵯峨天皇(786)・橘逸勢(?~842)とともにたたえられています。
「三筆」は日本の書道史で1つのおおきなテーマになるほど重要なキーワードです。
「三筆」についてはこちらで詳しく紹介しています。
さらに、この「三筆」3人の中でも空海は圧倒的に現存している筆跡が多く、影響力がもっとも大きいと言えるでしょう。
空海は中国(唐)に留学して書法を学ぶ
空海が生きた平安時代の前期は、中国(当時の王朝は唐)との交流が盛んだった時期で、日本から派遣された遣唐使は唐の宗教、思想などの諸文化を摂取していました。
空海は延暦23年(804)31歳の時に、桓武天皇の命により、遣唐使藤原葛野麻呂の船に同乗して当時の中国(唐)に派遣されました。
空海は大同元年(806)の帰国まで2年余りの期間を唐で過ごし、その間に収集した膨大な量の仏具・仏典などを日本に持ち帰るとともに、書においても中国の名跡と新し書風をよく取り入れて日本の書道の発展におおきく貢献しました。
空海が唐から日本に持ち帰った書跡
空海は唐で、王羲之が活躍した晋時代の書跡、または当時の唐の書跡を中心に収集し、日本へ持ち帰りました。
具体的にどのような種類の書跡を日本に持ち帰ったのかを紹介します。
弘仁2年(811)8月、書物を嵯峨天皇に奉献する状によると、
「徳宗皇帝真跡1巻、欧陽詢真跡1巻、張誼(伝記は不明)真跡1巻、大王(王羲之)諸舎帖(諸舎の字ではじまる王羲之の尺牘法帖)1巻、不空三蔵碑(唐の徐浩の書)1巻、岸和尚碑1鋪、徐侍郎宝林寺詩(徐浩の書)1巻、釈令起八分書1帖、謂之行書1巻、鳥獣飛白1巻」。
他にも数回にわたって「王右軍(王羲之)蘭亭碑1巻」「李邕(唐の書家)真跡屏風書1帖」などを嵯峨天皇に献上したことが記されています。
空海がこれらの書を持ち帰ったことは、よく書に見識を備えていたことを示しています。
空海は唐に渡って多くの名跡を鑑賞し、それをまた入手して日本に持ち帰り、とくに唐の時代に流行していた正しい伝統派のすぐれた書跡に注目していたのでした。
唐では王羲之の書風が尊重されていた
遣唐使たちが訪れた唐の都・長安では、王羲之の書が流行していました。
楷・行・草の各書体に優れた王羲之の書法は、空海をはじめとした日本の能書(字を書くのに優れた人の意味)にも大きな影響を与えました。
唐の文化が日本に与えた影響
書道の流行は奈良時代に起こり、平安時代になって極度に発達しました。平安初期は唐との交流がもっとも盛んな時期でした。
天平時代に盛んだった和歌はこの時代になると衰退し、それに代わって漢詩文が盛んになりました。漢詩文が盛んになると、詩文を表現する書もまた非常に尊重されるようになりました。
一般文化がすべて唐の文化を模範としたのと同じように、当時の書道も唐への遣唐使によって学ばれ、または、法帖となって続々輸入されたので、唐(中国)風の書をよくする能書家が輩出、漢詩文の流行とともに書道も盛んになりました。
空海は詩人としても、能書としてもすぐれた人でした。
唐(中国)風から日本風な書へ
空海や嵯峨天皇などの書風はだいたいが唐(中国)風ですが、唐風そのままではなく、すこし日本化しているところがあります。
空海は本朝入木道の開祖と言われました。空海以前にもすぐれた能書がいたのに、空海が日本の書の開祖と言われたのは、空海以前の能書の書風は中国風そのままでしたが、空海の書風はすこし日本化しているため、日本的な書は空海によって初めて作られたと認められ、空海が本朝入木道の開祖と言われたのです。
空海の代表作品を紹介
空海の代表作品としてよく挙げられる作品が3つあるので、それを紹介します。
- 風信帖(ふしんじょう)
- 灌頂歴名(かんじょうれきめい)
- 金剛般若経開題(こんごうはんにゃきょうかいだい)
風信帖(ふしんじょう)
空海の最も有名で、代表作品として挙げられるのが「風信帖」です。
弘仁3年ごろに空海から最澄に宛てた手紙で、もともとは5通あったそうですが現在は3通のみ現存しています。
3通ともそれぞれすこしづつ書風が異なっていますが、第一帖の「風信雲書…」ではじまる一帖はとくにすぐれています。
灌頂歴名(かんじょうれきめい)
風信帖のつぎに挙げられるのが、「灌頂歴名」です。
この作品の書風が顔真卿に似ていることから、空海は顔真卿を学んだという説があるのです。
金剛般若経開題(こんごうはんにゃきょうかいだい)
空海の代表作品3つ目が「金剛般若経開題」です。
これはすべて草書体で、彼が本来は草書が得意であり、唐から日本に帰ってからとくにそれが熟達したと思われます。
空海は本当に顔真卿の書を学んだのか
空海の書風は、骨格は王羲之の文字にていますが、筆遣いに関しては、起筆が丸く重心が低めであることから、顔真卿の書も学んだといわれています。
しかしこれについては中田勇次郎著『日本書道史論考〈上〉』では、「空海は顔真卿の書は学んでいないのではないか」という疑問が提起されており、その内容が興味深かったので紹介します。
空海は顔真卿の書を学んでいないと考えられる理由
顔真卿は起筆を篆書のように丸くする素朴な筆法によって、個性的な書を書きました。
しかし顔真卿の起筆を篆書のように丸くする筆法は、王羲之の伝統的典型的な筆法とはまったく性質が異なったものです。
つまり、顔真卿の書風は、王羲之の典型的な書風に対して反抗的な態度を示しているのです。
顔真卿は美しさを表現できないのではなく、恥じてそうしないのである。韓愈はかつて「王羲之の俗な書は見た目の姿の美しさに走ったのだ」と言った。その点を王羲之の欠点と考えたのだろう。
『続書断』神品・顔真卿の条
その性質はとても個性的なもので、顔真卿の書法に共感し学ぶ人はとても少なく、影響力はほとんどなかったと考えられます。
顔真卿が書道史に組み込まれるようになるのも、ずっと後の北宋の時代(蘇軾・黄庭堅など)からです。
少なくとも唐時代においては「顔氏家廟碑」や「麻姑仙壇記」などと同じ筆法で書かれているものはほとんど見られず、圧倒的に王羲之の書法が尊重されていたといえます。
したがって、たしかに空海の書には顔真卿に似た書法が確認できますが、これが顔真卿による影響なのか、それともただ単に空海の個性だったのかどうかは判断できないのです。