化度寺碑について解説
化度寺碑は、隋・唐間における三階教の名僧、邕禅師を葬った舎利塔の銘文が書かれていいます。
正しくは「化度寺碑故邕禅師舎利塔銘」といいます。
銘文は李百薬が撰文し、文字は欧陽詢が書きました。
欧陽詢が75歳の時の作品です。

銘文に書かれている邕禅師とは
化度寺碑は邕禅師という人を葬った銘文と紹介しましたが、邕禅師について紹介しておきます。
邕禅師は、俗姓は郭氏、山西太源介休の人。
13歳のときに出家します。三階教の開祖信行禅師とともにこの宗教団体の指導者として活躍し、貞観5年(631)11月6日、化度寺において89歳で亡くなりました。
邕禅師の遺令により、霊魂を終南山麓の鴟鳴阜に奉送し、信行禅師の霊塔の左側に塔を建立し、その舎利が収められました。
このとき唐の太宗皇帝は深く追悼の意を表し、帛を贈って追善したといいます。当時三階教が迫害されていたにもかかわらず、欧陽詢という最高の人に文字を書いてもらえたのは、このように太宗皇帝の後援があったからでしょう。
邕禅師が信教した三階教とは
僧侶である邕禅師が信教した三階教というのは、隋時代の信行(540~594)が創設した仏教の一派です。
仏法を、一乗仏法、三乗仏法、普法仏法の三階にわけ、末法の現世は普法仏法により救済されるという教理に立つものです。
これまでの仏教を改めてとにかく奇行が多かったため、隋の文帝により開皇20年(600)この宗派は異端として禁止され、唐時代に入っても制限を受け、唐の中頃についにこの宗派三階教は消滅しました。
化度寺碑の拓本を紹介
化度寺碑は有名な拓本が2つあります。
- 敦煌本
- 孟揚旧蔵本
それぞれ紹介していきます。
敦煌本
敦煌本は唐時代に採られた拓本で、西域敦煌から出土したものです。
20世紀初頭、イギリスのスタインや、フランスのペリオが行った中央アジア探検によって発掘されました。
拓が採られた年代は書かれていませんが、敦煌で発掘されたという背景から唐時代に採られた拓本であるとされ、もっとも古い拓本です。古い拓本ほど欧陽詢の正しい姿を示すものということになります。
もっとも古い拓本にもかかわらず欠文があることから、原石が唐時代においてすでに断裂していたことが分かります。
全部で6枚表裏で12ページあり、毎ページ4行、毎行5字、あわせて236文字あります。
ペリオが発見した前2ページ分はパリの国立図書館に、スタインが発見した10ページ分はロンドンの大英博物館に収蔵されています。
ペリオ本1枚目の寸法は縦12㎝・横8.6㎝です。
孟揚旧蔵本
別のもう1つの拓本は、孟揚旧蔵本です。
中国の明時代初期の詩人、王偁(字は孟揚)の旧蔵本で、清時代になると陳崇本・成親王・呉湖帆らの手をへて、現在は上海図書館に保管されています。
帖のなかに王偁をはじめ、翁方綱、英和、陳崇本らの監蔵印がみられ、帖の後には翁方綱、成親王らの跋文があります。
欠字の場所や文字の細部は敦煌本と一致しており、しかも敦煌本よりも文字数がおおいです。
清の金石学者翁方綱は化度寺碑にもっとも心酔した人で、この塔銘の復元作業を試みており、それによると銘文は34行、毎行33字、全1089字からなり、文字が書かれている面は高さ75㎝・幅80余㎝で、ほぼ正方形の墓誌に近い形式になっています。
化度寺碑の特徴・評価
化度寺碑は、欧陽詢の楷書作品の中でも字粒が小さく、書風は平静で高い風致を誇っており、筆の勢いや心の躍動を極力抑えています。
この作品について、宋時代において書の鑑定に優れた姜夔は「化度寺碑は九成宮醴泉銘より優れている」といい、また趙孟堅は「化度寺碑と九成宮醴泉銘は楷書の第一」と推奨しています。
唐の楷書としては、古来、欧陽詢の化度寺碑と九成宮醴泉銘、虞世南の孔子廟堂碑の3碑が最も優れたものであると言われています。しかし、これほど重きを置かれている碑であるにもかかわらず、化度寺碑は原石が早く宋代になくなってしまったためか、実際にはあまり知られていないようです。