乙瑛碑(いつえいひ)について解説
乙瑛碑は、中国後漢時代、153年(元興元年)に建てられた碑です。
場所は、立碑のときからそのまま山東省曲阜市の孔子廟にあります。現在は孔子廟内の東廡「漢魏碑刻陳列室」(通称「孔廟碑林)に置かれています。
碑の大きさは、260×129㎝。
題額はありません。
構成は、18行、行ごとに40字。碑陰は無字。全文で766文字あります。
この碑には題額がないためもあって、さまざまな別称があります。
・魯相置孔子廟卒史碑(『集古録跋尾』巻2)
・孔廟置守廟百石孔龢碑(『隷釈』巻1)
・魯相乙瑛置孔子廟卒史碑(『金石史』巻上)
・魯相乙瑛請置百石卒史孔龢碑(『庚子銷夏記』巻五)
・孔廟置守廟百石卒史碑(『両漢金石記』巻6)
そのほか多数の呼び方があります。
また百石卒史碑、孔龢碑の略称もありますが、一般に乙瑛碑(翁方綱『蘇斎題跋』巻13が初見)と呼ばれています。
乙瑛碑の内容
乙瑛碑の文の内容は、4段にわかれています。
孔子の19世の孫である孔麟の時代に、孔子廟は荒れ果て、管理の手も行き届かなくなっていたのでしょう。孔麟は、当時の魯国の前長官であった乙瑛に、孔子廟の保護について相談したのが奏請のきっかけです。
第1段
乙瑛が時の司徒呉雄、司空趙戒に、孔子廟に1名の百石卒史(俸禄高百石の役人)を常置し、廟の守護と儀礼用祭器を管理させたい旨を上申しました。
(司徒臣雄~須報)
第2段
呉雄と趙戒は、宗廟の祭儀担当官の掾属である馮牟と郭玄に、これに関する故事を質したところ、乙瑛の奏請は容れるべきであるとの返答をえたので、呉雄と趙戒の名前で朝廷に奏請しました。
(謹問~以聞)
第3段
153年(元嘉3年)3月17日、奏請を許可する決裁がおりました。司徒、司空府よりただちに百石卒史として、年齢が40歳以上で、経書の1つにくわしい者を選ぶようにという意味の詔書が、永興元年(元嘉3年5月改元)に、魯相の平(乙瑛の後任者)に伝達されました。
そこで通達の趣旨にそって、孔龢、孔憲、孔覧などを試験した結果、『春秋厳氏経』にくわしく、親孝行ものでかつ衆望のある孔龢をえらび、これを公文書にして司空府に報告しました。
(制曰可~上司空府)
第4段
このことに尽力した魯の前長官の乙瑛、百石卒史の官舎を造った曲阜令の鮑畳、またそもそもの発案者であるの名前を銘記し、その功績を称えています。
(讃曰~是於始□)
乙瑛碑の書き方・特徴・書風
乙瑛碑は、礼器碑や曹全碑とともに漢碑(隷書)の代表作品として有名です。
3つの碑の中でも乙瑛碑はすべての点画にまで波勢のリズムがいきわたった隷書の典型と言えるのではないでしょうか。
「波勢」のリズム
活字の「書」では、横画はくるいのない水平、平行です。
一方、乙瑛碑では、どの横画も曲線の味わいがあります。
水平方向への安定を保ちながら線が引かれ、かつ最後まで波うつリズムが感じられます。
これが「波勢」と呼ばれる隷書特有の運筆のリズムです。
活字からは、このリズムや息づかいが伝わってきません。
乙瑛碑から生態感が伝わってくるのは、太い細い、強い弱い、遅い速いなど変化の要素にくわえ、この波勢のリズムがあるからなのです。
隷書の横画
隷書の横画の起筆は、右斜め上から筆を入れ、筆を巻くように方向転換させます。
そして右上がりにならないように気を配りながら右水平方向に送筆します。
楷書の起筆とは違うため、はじめのうちは思うようにできないかもしれませんが、これが隷書の筆法なのです。
「三」の3画目の終筆には、ひときわ目立つ「はらい」があります。
波勢のリズムをともなったこの「はらい」を「波磔」といいます。
波磔は一般的に主画(形をとる上でもっとも重要な画)につきます。
そのため波磔のついた横画はとても長い筆画になりますが、扁平な字形を保ち、横方向への波勢のリズムをより強調する効果をもっています。
また、波磔のつかない横画の終筆においては、波勢のリズムをそのままスッと筆を抜きます。
けっして楷書のように止めて押さえてはいけません。隷書は楷書よりも古い書体のため、楷書になって発生し完成した用筆法はすべて捨てなければならないということなのです。
乙瑛碑の上達には道具も大切
ここまで乙瑛碑の書き方を紹介してきましたが、上達するためには道具も重要になってきます。
作品を書く際、
「お手本のようになかなか上手に書けない…」
「筆が思うように動いてくれない…」
という方には、美しさ・使いやすさが追求された、書道筆「小春」がおすすめです。
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