楷書日本の法帖

一切経(いっさいきょう)について詳しく解説【日本ではじめて写経に使われた経典・金泥一切経と銀泥一切経・一日一切経・一筆一切経】

楷書

今回紹介する「一切経いっさいきょう」は、日本に写経が伝わり、はじめて写経につかわれた経典です。

日本では、この一切経の写経がもりあがり、金色の文字で書いたり、とてもたくさんの人々の協力のもと1日で写経を完成させるというイベントが開かれたりしました。

今回は、「一切経いっさいきょう」について、さらに装飾的な金泥一切経きんでいいっさいきょう銀泥一切経ぎんでいいっさいきょうについて、一日一切経いちにちいっさいきょう一筆一切経いっぴついっさいきょうについても詳しく紹介していきます。

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日本ではじめて写経に使われた経典「一切経」とは

法隆寺一切経
法隆寺一切経

『日本書記』の記事によれば、日本ではじめての写経として「一切経いっさいきょう」が書写されました。

一切経いっさいきょうというのは、経蔵きょうぞう仏陀ぶっだの説いたきょう集成しゅうせい)、律蔵りつぞう仏法ぶっぽう禁戒きんかいを説いた典籍てんせき)、論蔵ろんぞう(仏法に関する聖賢せいけん所説しょせつの典籍)の三蔵さんぞう全部をふくむ総称です。「大蔵経だいぞうきょう」とも呼ばれます。

歴代の皇帝の中でもっとも熱心な仏教信者であった煬帝ようだいずいの第2代皇帝)が、歴世、あいついで経典の収集や校勘を行い編成されました。

インドから中国にもたらされ、たびたび漢訳が行われつつ、時代が下るにつれて増補されていきました。その最終決定版とされるものが、中国とう時代の730年(開元18年)に編集された『開元釈教録かいげんしゃっきょうろく』です。5048巻を総数としました。

「一切経」は、5048巻にものぼるとても長い経典なのです。

「一切経」はとても長い/全部で何文字?

「一切経」は、5048巻もある。と紹介しました。

その文字の総数はどのくらい多かったのでしょうか。

1つの基準として奈良時代の写経を基準とするならば、写経は1行を17字で書き、1枚の紙には約25行で書きます。「正倉院文書」にみえる所用料紙の枚数から割り出して、1巻の平均枚数は18.8枚です。

これを数式で改めてみると、
17字×25行×18.8枚×5048巻=40,333,520字
という計算が成り立ちます。

江戸時代末期の越後えちご(新潟県)の穂積ほづみたもつはこの文字数に関心を持った学者で、彼の著書である『能書事跡』(四巻)に、『昆慮閣碑文こんりょかくひぶん』の説を引用すると、「六千零々三万千百八十余(60,031,180余)」と書かれています。

「一切経」を書写するのにかかる時間は?

では、「一切経」を書写するのにどれほどの時間がかかったのでしょうか。

「正倉院文書」によれば、当時の経師は、1日7枚分(2,975字)書いたそうです。つまり0.4巻分を書写する計算となります。

1日の経師の人数を50人とした場合、
5,048巻÷0.4巻=12620日(1人で書写した場合)
12620日÷50人=252.4日(50人で書写した場合)
となります。月にすると、1人だと420か月、50人だと8.4か月かかっていたようです。

金泥一切経と銀泥一切経

3番の紺紙金字一切経(神護寺経)
3番の紺紙金字一切経(神護寺経

金泥こんでい一切経いっさいきょうというのは、こん色の紙に金色で文字を書いた一切経いっさいきょうのことをいいます。

銀泥ぎんでい一切経は、銀色の文字で書かれた一切経いっさいきょうです。

金泥一切経の供養が行われたのは平安へいあん時代、それも末期まっきごろのようです。 記録上、金泥一切経の書写は、奈良なら時代にはみられません。

発願者供養年月日場所出典
白河法皇○1103年(康和5)7月13日
○1110年(天仁3)3月13日
 1110年(天仁3)5月11日
 1113年(天永4)3月28日
 1113年(永久元)10月1日
○1131年(天承元)6月17日
 1133年(長承2)10月28日
法勝寺
法勝寺
法勝寺
法勝寺
法勝寺
法勝寺
法勝寺
殿暦・本朝世紀・百錬抄
殿暦・永晶記・古事談
殿暦・百錬抄・江都督納言願文集
長秋記
長秋記
百錬抄
中右記
鳥羽法皇 1134年(長承3)2月17日
 1146年(久安2)10月20日
○1153年(仁平3)2月14日
法勝寺
法金剛院
熊野
中右記・長秋記・百錬抄
百錬抄
本朝世紀・百錬抄
持賢門院 1136年(保延2)10月25日
 1141年(保延7)2月28日
法金剛院
法金剛院
中右記・百錬抄
兵範記
美福門院○1150年(久安6)4月27日
 1150年(久安6)5月27日
 1150年(久安6)10月2日
法勝寺
法勝寺
法勝寺
台記
台記
台記・本朝世紀
崇徳上皇 1154年(久寿元)10月30日法金剛院兵範記
高倉天皇○1176年(安元2)6月18日日吉社吉記
白河殿盛子○1178年(治承2)7月15日春日社百錬抄
藤原秀衡○1176年(安元2)3月中尊寺現存「法華経」巻第八奥書
平安時代の金泥一切経供養記録一覧表 ※○印は新写供養のものと推定されるもの。

金泥(金字)について

金泥こんでいは、金粉をにかわの液に溶かしたもので、書・画を書く顔料の一種です。「金字」ともいいます。

現在伝わっている文献によると、奈良時代から平安時代初期のころは「金字」という表記が使われる場合が多いようです。

  • 合奉写金字最勝王経一百七十九巻(「正倉院文書」746年〈天平18年〉10月17日「写金字経所解」)
  • 金字大般若経一部(「日本略記」861年〈貞観3年〉2月7日条)
  • 金字妙法蓮華経一部(「扶桑略記」991年〈正暦2年〉閏2月27日条)

などがあります。

しかし、平安時代中期になると、「金泥」が使われることが多くなります。

  • 書写五郎部金泥法華経(「小右記」987年〈永延元年〉5月10日条)
  • 書写金泥法華経十一部(「百錬抄」994年〈生暦5年〉10月2日条)

以降は、金泥の表記が多くなります。

金泥一切経の遺品

3番の紺紙金字一切経(神護寺経)
3番の紺紙金字一切経(神護寺経

現在、平安時代の金泥一切経の遺品とされているものがあります。

  1. 紺紙金字一切経(荒川経)、重要文化財、3575巻、金剛峰寺蔵
  2. 紺紙金字一切経(内十五巻金銀交書経)、国宝、2739巻、大長寿院蔵
  3. 紺紙金字一切経(神護寺経)、重要文化財、2317巻、神護寺蔵
  4. 紺紙金泥一切経、79巻、太山寺蔵

以上の4種類があります。

1番は、美福門院びふくもんいん(鳥羽天皇皇后)が企画したもので、鳥羽天皇とばてんのう菩提ぼだいのために1150年(久安きゅうあん6)5月27日、法勝寺ほっしょうじ金堂こんどうで書写供養を行った一切経です。現存する3575巻は、保存状態もよく、表紙・見返し絵なども絵画史研究のうえで重要な資料です。

2番は、藤原秀衡ひでひら(?~1187)が企画したもので、亡くなった父基衡もとひらの追福のために書写させた一切経です。現在、中尊寺ちゅうそんじに2739巻を残しているので、ふつうには「中尊寺経ちゅうそんじきょう」の名前でよばれています。

3番は、今日世間に「神護寺経じんごじきょう」と呼ばれているものです。鳥羽院が企画した一切経で、のちに息子の後白河天皇ごしらかわてんのう(1127~1192)によって神護寺に安置されたと記されています。この一切経がいつごろ書写されたのかについては、この神護寺経に付属している経帙きょうちつのなかに「久安五年四月廿三日(1149年4月23日)」と書かれています。これが制作時期を意味するのかどうか明らかではありませんが、およそその制作の時期を示しています。

4番は、田中塊堂博士の報告によってでてきたものです(『日本写経綜鑑』)。現存しているのは78巻だけですが、部門別に整理すると、もともとは完全な一切経の1部であることがわかります。

金と銀が交互にならぶ「紺紙金銀交書一切経」

紺紙金銀交書一切経
紺紙金銀交書一切経

1行ごとに金泥と銀泥を交互にかき分けられている「紺紙金銀交書一切経こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう」を紹介します。「中尊寺経ちゅうそんじきょう」とも呼ばれます。

藤原清衡ふじわらのきよひら(1056~1128)の発願により書写されました。

清衡は、この一切経を書写するにあたって、まず京洛きょうらく(京都)から写経集団を奥州おうしゅうに招こうと考えました。比叡山ひえいざんの僧侶である蓮光れんこうを総監督として、たくさんの写経料紙を用意し、十数人の写経団を編成しました。
写経の中に、それぞれの署名を加えたものがあり、永昭・湛有・政算などがあります。

蓮光れんこうは明け暮れ写経僧らを励まし写経の完成を急ぎましたが、結局は完成まで8年も費やしました。

この経は、不思議にも大部分が高野山こうやさんに移されており、現在4297巻(うち国宝指定4296巻)が高野山こうやさん金剛峯寺こんごうぶじの所蔵となっています。豊臣秀次とよとみひでつぐ(1568~1595)が奥州おうしゅう九戸政実くのへまさざねを攻略して帰る際、この寺から高野山に献上したといいます。

一日一切経・一筆一切経

一切経は全部で5048巻、文字数でいうと60,031,180余りであると伝えられています。そのため、一切経の書写は大人数で何か月もかけて行われました。

「一切経」には、「一日一切経」というものがあります。京都中のたくさんの人々が協力して1日のうちに「一切経」のすべてを書写し、供養するというのが「一日一切経」です。

「一日一切経」に対して、「一筆一切経」というものがありました。この膨大な量の一切経の書写を、だれの力も借りずに1人で完成させようというのが「一筆一切経」です。

一日一切経

文献にみえる最初の「一日一切経」は、1096年(嘉保3)3月18日、法成寺ほうじょうじの名僧、慈応じおうが企画したものです。

この慈応じおうが企画した一日一切経のイベントについて、藤原宗忠ふじわらのむねただという人は自身の日記にこう記しています。

今日、京中の上下万人、1日の中に一切経を書写すと。是れ一聖人有り。夢想の告げを得る。人々に進め催して、各の家々において書写せしめ、則ち、供養おわりて、聖人の許に送る。てえれば、大善根たるに依って、いささか記し置く所なり。

『中右記』(原文は漢文)

一聖人というのは、慈応のことです。

内容としては、夢のお告げによって、京都中の人々1万人ほどが、1日のなかで一斉に一切経を書写しました。一軒一軒に紙と筆と墨を配って、1日のうちに一切経5000巻あまりを書き上げ、その日のうちに供養を終わらせました。
『百錬抄』(第5)にも、これが記録されています。

多くの人に協力してもらうには、一軒一軒、一人ひとりに、この企画の趣旨を説明する必要があります。人数分の紙や筆や墨の用意も必要です。書き上げて持ち込まれたものの整理、あるいは書き上がるのが遅いところは催促さいそくして取り集めに行く必要もあったでしょう。さらに、夕暮れのうちには供養を終わらせなければなりません。

1日のうちに一写経を書写して供養まですることがどれだけ大変なことだったのかがうかがえます。

一筆一切経

次に、「一筆一切経」を紹介します。

もしこの「一切経」を1人で書いたとすると、いったいどのくらいの年数が必要なのでしょうか。

その大業を成し遂げた人々がいます。

藤原定信による一筆一切経

その1人は、藤原行成ふじわらのこうぜいを祖とする能書の家系世尊寺家せそんじけの5代目、定信さだのぶ(1088~1156)です。

定信は何歳から何歳までどれだけの期間かかって完成させたのか、『宇槐記抄うかいきしょう』(仁平元年10月10日条)に、

十日
定信朝臣、於多武峰出家云々、年六十四

『字槐記抄』(仁平元年10月10日条)

とみえます。逆算すると、ちょうど1129年(大治4年)42歳でとりかかった計算となります。42歳からはじめて64歳まで23年かかりました。2日に1巻ずつ書いた計算となります。

この驚異的な一切経の供養くようは、南都春日大社かすがたいしゃ宝前ほうぜんではなばなしく行われました。興福寺こうふくじ別当べっとう隆覚りゅうかく導師どうしとなり、100人もの僧侶が出席して行われました。

この写経は一旦、興福寺の僧侶・尋範じんぱんが保管していましたが、やがて収蔵するための経蔵きょうぞうを建設し安置しました。

ところが、「南都焼討なんとやきうち」という火災の影響により、わずか30年あまりの後に、炎上してしまいました。
そのため、現在、その一切経は現存していません。

色定法師一筆一切経

色定法師一筆一切経
色定法師一筆一切経

鎌倉かまくら時代初期の筑前国ちくぜんのくに宗像大社むなかたたいしゃの僧侶色定法師しきじょうほうし良祐りょうゆう・1159~1242)も、1人で「一切経」を書写しました。

「色定法師一筆一切経」は、福岡県宗像郡玄海町の興聖寺こうしょうじに4342巻が現存しており、重要文化財に指定されています。もともとは、宗像神社に納められていましたが、1873年(明治6)の神仏分離の際に、興聖寺に移されました。

もともとは5048巻ありましたが、虫食いのために破損。次第に数を減らし、4600あまり巻を残していましたが、1702年(元禄15)の洪水で焼く1200巻が浸水、さらに散逸して現在の数になりました。

現存している「色定法師一筆一切経」の奥書によると、

文治三年丁末四月十一日、始壬午書終日十六日辰時書畢。宗像西経所書之一。切経一筆書写行僧良祐之。

『華厳経』巻第1

建久元年庚戌十一月十七日、彦山三所権現以貴水書之。一切経一筆書写行人良祐。
本経主網首張成墨助成網首筆勤覚成房。
正治二年庚申五月八日。書写畢

『仏説大般泥洹経』巻第1

為慈父座主兼祐悲母藤原四子法号蓮阿弥陀仏乃至法界衆生抜苦与楽之書写如件
一切経一筆書写之行人比丘良祐

『正方念処経』巻第17

とかかれています。

自分のことを「一切経一筆書写行人良祐」と称したことや、父母の菩提ぼだいとむらったことなど、さまざまな写経の目的があったようです。

色定法師しきじょうほうしは、1187年(文治3)29歳の4月11日に写経にとりかかり、1228年(安貞2)に書き終えました。写経完成まで42年を費やしています

彼は仲間の西観せいかん心昭しんしょうをつれて、広く九州・四国・中国地方をめぐり歩いて托鉢たくはつ行脚あんぎゃをつづけました。托鉢たくはつとは、信者の家々をめぐり、経文を唱えて食料や金銭の施しをうけてまわる修行形態の1つです。
色定法師しきじょうほうしは写経のための紙・筆・墨、あるいは金銭などの援助をうけながら、自身はもっぱら写経に明け暮れました。

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