鄧石如(とうせきじょ)の基本情報
鄧石如は、中国の清時代中後期に活躍した書道家・篆刻家です。篆書・隷書が専門の書道家です。
1743年(乾隆8年)~1805年(嘉慶10年)、本名は琰、字は石如といいましたが、嘉慶帝の諱の顒琰を避けるために、字を名前にし、字を頑伯に変えました。
安徽省懐寧県集賢関の人です。
懐寧県には皖公山があるので、別号として完白山人とも名乗りました。
鄧石如の生涯や評価については、主に包世臣「完白山人伝」で伝えられています。
現在、包世臣「完白山人伝」は訂正される部分もでてきましたが、全面的に覆されるものではありません。
以下、「完白山人伝」に基本をおいて、誤りと思われる部分を修正しながら、彼の生涯を紹介していきます。
鄧石如の生涯・人生
鄧石如は、家計が苦しく、書道と篆刻が得意だったので、いたるところに書道作品と篆刻作品を売り歩いて生計を立てる人生でした。
その間、梁巘、梅鏐、張恵言、金榜、曹文埴、畢沅といった生計の援助者がいましたが、基本的に作品や印を売り歩くことの多い生活でした。
鄧石如が寿州におもむいた30歳ごろ、寿春書院の院長梁巘に出会い、その才能を認められました。
梁巘は鄧石如を江寧の梅鏐に紹介しました。
梅鏐は名門で、家にはたくさんの金石拓本を所蔵していました。梅鏐は鄧石如を8年間もとどめて、もれなく所蔵の碑版を鄧石如の閲覧に提供しました。
鄧石如ははじめの5年間は篆書に、あとの3年間は隷書に専念し、毎日朝早くから夜遅くまで休むことなく臨書にはげみました。
しかし、38斎のとき、梅鏐の家での暮らしむきが悪化したので、鄧石如は荷をまとめてもとの売書売印の生活に戻りました。
江南の各地を訪れ、歙県で作品を売っていたころ、張恵言に出会います。その張恵言の紹介で金榜と交わりを持ちました。
金榜は鄧石如を1年間客としてもてなし、家廟の楹聯や扁額を書かせたりしました。
その後、鄧石如は金榜の推薦で戸部尚書の曹文埴に会い、曹文埴から書の才能を賛美されました。
1790年(乾隆55年)曹文埴の要請に応じて北京へおもむき、劉墉や陸鍚熊などの名士に会い、彼の書は「千数百年のこの作なし」と評価されました。
しかし、まもなく劉墉は失脚してしまい、陸鍚熊も急死してしまい、しかも文壇の大御所翁方綱があいさつに来なかった鄧石如を非難したので、鄧石如は北京をはなれざるをえなくなりました。
その後、鄧石如は両湖総督の畢沅にまねかれて幕客(秘書)となり、そこで3年間滞在しました。
しかし、幕客の仲間とそりが合わず、51歳から再び旅を出る決心をします。畢沅は別れの際に、鄧石如の故郷の懐寧に終老の資産としての田宅を買い与えました。
その後、鄧石如は郷里に住み、ときどき出遊をし、1805年(嘉慶10年)10月に63歳で亡くなりました。
鄧石如の人生は、書道作品と篆刻作品を売り歩いた生涯であり、意図的に権力者にへつらってその人に気に入られるようとしない、野生の強さともいえる「天真」を養って生きた生涯でした。
また、このひたむきな芸術家を支える梅鏐や畢沅などの支援者と出会えるほど豊かな時代だったことも重要です。
鄧石如と包世臣との出会い
不遇をかこっていた鄧石如の評価を、一挙に高める役わりをしたのは包世臣でした。
鄧石如が60歳、包世臣は28歳のときのたった1度の出会いです。
鄧石如は包世臣に、
「(1字の結構で)疎である処は馬をもって駆けぬけさせよ。密などころはすきま風も透さすな。つねに余白を計算に入れて墨を充当すれば、奇趣が出る」
といって、書法を伝授しました。
書道作品や篆刻作品を売り歩くことの多かった鄧石如は、弟子を持ちにくい状況であったと想像されますが、包世臣との出会いは鄧石如にとって幸運だったといえます。
というのも、経世家であり論客の包世臣は鄧石如を世間に広めることに努め、主に理論面での後継者となったからです。
鄧石如がひたむきに打ちこんだ書道は、包世臣という理論家によってますます影響力を強め、その後の呉熙載、趙之謙らをはじめとする清時代後期の書道家たちに影響を及ぼすこととなりました。
包世臣による鄧石如の評価「国朝書品」
包世臣の鄧石如に対する評価は、「完白山人伝」以外にも述べられており、その中でもっとも重要なものに『国朝書品』があります。
『国朝書品』では、清時代前半期の書道家をランクづけし、鄧石如がいかに優れているかを理論的に根拠づけられています。
『国朝書品』によれば、
- 神品一人 鄧石如隷及篆書。
- 妙品上一人 鄧石如分及真書。
- 妙品下二人 劉墉小真書。姚鼐行草書。
とあり、以下つづいて能品上下、逸品上下、佳品上下と、9段階にわけてランク付けしています。
全部で97人を挙げていますが、最上級の「神品」には鄧石如の隷書と篆書をおき、次の「妙品上」にもただ1人だけ彼の八分と楷書をおきました。
鄧石如の魅力とは
では、これほど包世臣が尊敬した鄧石如の作品の魅力とは何であり、その価値はどれくらいのものなのでしょうか。
北碑派の流行
「中国の書法は魏晋以降、南派と北派に分かれた。従来の人々はほとんどみな南派の書ばかりを見て、北派の書はその存在さえ知らなかった。しかし書の正統は、この忘れられている北派の書の中にこそ伝わっているのである」
という内容の阮元の『南北書派論』は、清の道元のはじめごろに主張されました。
この主張は、幻の王羲之像を追い求めていた帖学派(南派)にとっては斧の一撃にも似て、以後の書道界は大きく碑学派(北派)に傾くことになりました。
鄧石如はこれが主張される直前に活躍している書道家です。
『南北書派論』が説かれる背景として、金石を研究して篆書、隷書を書く人が多くなり、当時、文字の獄が大きく興ったことと関連して、学者や読書人は特に考証学に力を入れるようになっていました。
鄧石如より以前の篆書
鄧石如より以前に篆書(小篆)を書いていたもっとも有名な人に王澍がおり、つづいて銭坫、孫星衍、洪亮吉らがいました。
この4人が書いた小篆はほどんど同じ雰囲気で、筆遣いは細く痩せて型にはまっており、配置が均等になっています。
彼らが使う筆は、均整をもとめるため筆の先を切ったり、また筆を使わずに細薄の布を束ねて小さく巻いたもの(綢子捲といい、孫星衍が常用したといわれている)で、線が均一な小篆を書いたりしました。
こうした均整な面では、王澍がもっとも完璧であり、銭坫の晩年の左手の小篆は自然であるとされていますが、そうじて表面的な形の洗練にとどまっていて、筆力のある線には至りませんでした。
鄧石如の篆書
鄧石如の最初の努力は、ごく普通の柔毛筆をつかって、玉筯篆とよばれる変化をおさえた李陽冰風の篆書に生命を盛り込んだことです。
そして懸腕による逆入と中鋒によって、それまで誰もなしえなかった秦篆や漢隷の格調を再現することを可能にしました。
天才は時代を先取りするという言葉通り、翁方綱らの攻撃中傷にもめげず、努力をつづけ、ここに新しい書法が確立したのです。
鄧石如の打ちたてた業績ががあったことで、『南北書派論』が説かれ、それ以降の碑学の発展が可能になりました。
李兆洛は彼の墓誌銘で、「真気は弥満し、楷則は俱に備わり、手の運ぶ所、心の追う所、時俗を絶去し、古初に符を同じくす」と絶賛しています。
鄧石如の作品
釈門:思於物有濟。愧為人所容。(隸書)。甲子(西元一八0四年)秋九月完白山人書於鄭齋。(隸書)。
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