趙之謙(ちょうしけん)の基本情報
趙之謙〈1829年(道光9年)~1884年(光緒10年)〉は、中国の清時代末期において、書・絵画・篆刻の世界でもっとも華やかで力強い作品を残した芸術家として有名です。
趙之謙についての伝記は、『清代画家詩史』辛巻、『国朝書画家筆録』巻四などにみえます。
彼の父は守礼といい、その次男として浙江省紹興市で生まれました。
はじめ字を益甫、雅号は礼君といいました。のちに字を撝叔、雅号を悲盦と改め、ほかにも无悶、憨寮といいました。二金蝶堂、苦兼堂の堂号があります。
書道家としては、初期のころは通例に従って顔真卿の書跡を学びました。
32、33歳ごろから北魏の楷書を学びはじめます。
35歳で北京に移住するようになり、『補寰宇訪碑録』5巻の著録に従事するつれて、大量の進出の北魏の碑に出会い、眼が一気にひらかれて、その研究に専念しました。
趙之謙の生涯、人生
趙之謙の家は豪商で、17歳ごろから沈復粲(1779~1860)を師事して金石学を学びました。天性穎悟、長じては読書を好み、読んだものはすぐに覚えたといいます。
兄がある訴訟にかかわったことで家産が傾きはじめ、22歳ごろから書画刻印で生活しました。さらに25歳のときに父が亡くなり、家計は立ちゆかなくなりました。
20代の末に、浙江の浙江按察使(地方行政を監督する令外官)であった繆梓が趙之謙の作った文章をみて、その才能をみこんで幕客(官僚秘書)に招きます。そこからは生活も楽になり知見も広めることができました。
そのころ繆梓の幕客には績溪の胡培系、胡澍、溧陽の王晋玉、餘姚の周白山らがおり、これらの人々と議論をして研鑽を積み、兵事農政はもとより諸般の政治上の問題、塩政、運輸、郡県の政令などに精通する機会を得ました。
繆梓が杭州で洪秀全の軍に対して殉死したとき、朝廷は彼を悪く言い恩典を与えませんでしたが、趙之謙は彼の恩に報いるため朝廷に書面を提出し、それが効を奏して恩典を与えられ、武烈の諡も与えられることになりました。
1859年(咸豊9年)、31歳のときに第3位の成績で郷試(科挙の1段階目)に合格しました。
ただ当時、洪秀全による太平天国の乱がおこっており、次第に江南市に広がり、郷試に合格した翌年には杭州市が陥落しました。
紹興市も危険なので、趙之謙の妻の范敬玉も家を出て避難しましたが、1862年(咸豊11年)2月、34歳のとき、妻が避難先で病気で亡くなり、同年9月に紹興市も陥落し、趙之謙の故郷の家は兵火で焼かれてしまいました。
この年の冬、かれは杭州市から舟で福州市まで避難しましたが、うちつづく不幸のなかでそれまで使っていた冷君という雅号から悲盦と改めました。
1862年(同治元年)6月までは福州市に滞在しましたが、同年夏には温州市にもどり、太平天国の乱も次第におさまってきたので、同治2年には心機一転して、北京市へと上京しました。
北京へは、繆梓の門下で親友でもある能書家の胡澍も同行しました。北京では沈樹鏞、魏稼孫(錫曾)などと親交を持ち、金石学に励みました。
また時の大官である祁寯藻や毛昶熙、潘祖蔭らに寵愛され、文章を作ることを依頼されたり、書画篆刻を求められたりしました。「煮字為粻」と自述するように、それらを売って十分に生活できるくらいに繫栄しました。
同治3年からは雅号を无悶と改めていますが、おそらくこれまで鬱屈していた悲しみの感情がほぼ克服されたのではないかと想像されます。
このころは北京の収蔵家を訪ね、名跡や珍しい作品などをみることができ、鑑識眼、技術ともに伸びました。彼がもっとも充実していた時期であり、彼の芸術が豊かに花開いた時ともいえます。
北京には8年間滞在しました。その間に3回会試(科挙の2段階目)を受けましたが合格できず、ついに高級官僚となることを断念しました。
巡撫の劉坤一はかねてより趙之謙の才識学力を知っていたので、このとき『江西通志』の編集を依頼しました。趙之謙は誠意この編集にあたり、おおくの優れた助手をつかって180巻の大著を完成させました。
その後、1878年(光緒4年)50歳ではじめて江西省鄱陽県の知県(県の長官、県知事)に任命されます。つづいて奉新、南城の県令を歴任しました。
彼は繆梓のもとにいた青年時代から政治に精通していましたが、会試に合格できなかったため、地方官である知県として政治に専念し、1884年(光緒10年)10月に、56歳で病気で亡くなりました。
趙之謙の性格
趙之謙の性格は、屈強で自信家な面と、内省的な面の2つの面がみられます。
趙之謙は自信家だった
趙之謙は自信家だったという記録があります。
伝記のなかでは、
「盛気 近づき難く」(『寒松藝瑣録』)
「強肚にして 飲饌 人に兼り、厳冬と雖も、帽を脱し首を驤ぐれば、気蒸々として汗の流るるが如し」(『撝叔府君行略』)
とあります。
また、〔血性男子〕という自印を刻したり、「余 少きときは、気を負い、学を論ずれば必ず他人を疵り、郷曲からに悪まれた」(『亡妻范敬玉略』)と亡き妻范敬玉の事跡を述べた文章の中で告白しています。
さらに魏稼孫におくった手紙に、自分の芸術を「天七人三」(才能7割、努力3割)といい、
また張鳴珂には「生平の藝事、みな 天分 人力より高し。ただ治印は則ち天五人五、間然するなし」(『寒松藝瑣録』)といって、篆刻とともに自分の才能の高さを自負しています。
趙之謙は理論的に内省することもできた
趙之謙は自信家である一方で、書画における題賛、印の側款、手紙にみえる痛烈な批評や野中からは常に自分をきびしく律し、凝視する様子がよみとれます。
初期の雅号の「冷君」というのはみだりに人を許さず、自らを内省する孤高な人であったことを示しています。
その後、太平天国の乱のなか妻を病気で亡くし、趙家が火事にあうという遭難によって悲しみのあまり「悲盦」という雅号を名乗るようになります。
それからまもなく、科挙の中央で行われる会試を受験するために北京へ出ますが、そこでの沈樹鏞、胡澍、魏錫曾との金石を中心とする交流は生まれつきの優れた感性のうえに、学問的裏付けが加えられ、あまり恵まれなかった趙之謙の生涯のなかでももっとも良い時期だったと思われます。雅号を「无悶」(悶え無し)と改めます。
趙之謙の芸術は、「悲盦」を克服して「无悶」にいたるという努力と精進の軌跡といってもいいでしょう。
趙之謙の作品
趙之謙の隷書作品「隷書張衡霊憲四屏」
隷書張衡霊憲四屏は、後漢時代の張衡の著とされる『霊憲』の一節を、趙之謙が隷書で四幅の屏風に書いたものです。
趙之謙の行書作品「行書七言古詩四屛」
行書七言古詩四屛は、虎斑箋に、七言古詩を行書で揮毫した四屏です。
趙之謙が亡くなる前年、55歳の作品です。趙之謙)が晩年に到達した「北魏書」を代表する、記念碑的な作例と言えます。
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