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清時代の書道家:趙之謙(ちょうしけん)について解説/特徴・隷書・行書の作品を紹介

2025 4/12
中国の書家
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目次
  1. 趙之謙(ちょうしけん)の基本情報
  2. 趙之謙の生涯、人生
  3. 趙之謙の性格
    1. 趙之謙は自信家だった
    2. 趙之謙は理論的に内省することもできた
  4. 趙之謙の作品
    1. 趙之謙の隷書作品「隷書張衡霊憲四屏」
    2. 趙之謙の行書作品「行書七言古詩四屛」

趙之謙(ちょうしけん)の基本情報

趙之謙像(清代学者像伝第二集)

趙之謙ちょうしけん〈1829年(道光9年)~1884年(光緒10年)〉は、中国の清しん時代末期において、書・絵画・篆刻の世界でもっとも華やかで力強い作品を残した芸術家として有名です。

趙之謙についての伝記は、『清代画家詩史』辛巻、『国朝書画家筆録』巻四などにみえます。

彼の父は守礼しゅれいといい、その次男として浙江省せっこうしょう紹興しょうこう市で生まれました。

はじめ字あざなを益甫えきほ、雅号がごうは礼君れいくんといいました。のちに字あざなを撝叔ぎしゅく、雅号がごうを悲盦ひあんと改め、ほかにも无悶むもん、憨寮かんりょうといいました。二金蝶堂にきんちょうどう、苦兼堂くけんどうの堂号があります。

書道家としては、初期のころは通例に従って顔真卿がんしんけいの書跡を学びました。
32、33歳ごろから北魏ほくぎの楷書を学びはじめます。
35歳で北京ぺきんに移住するようになり、『補寰宇訪碑録ほかんうほうひろく』5巻の著録に従事するつれて、大量の進出の北魏ほくぎの碑に出会い、眼が一気にひらかれて、その研究に専念しました。

趙之謙の生涯、人生

趙之謙ちょうしけんの家は豪商で、17歳ごろから沈復粲しんふくさん(1779~1860)を師事して金石学きんせきがくを学びました。天性穎悟、長じては読書を好み、読んだものはすぐに覚えたといいます。

兄がある訴訟にかかわったことで家産が傾きはじめ、22歳ごろから書画刻印で生活しました。さらに25歳のときに父が亡くなり、家計は立ちゆかなくなりました。

20代の末に、浙江こうしゅうの浙江せっこう按察使あぜち(地方行政を監督する令外官)であった繆梓ぼくしが趙之謙の作った文章をみて、その才能をみこんで幕客ばくきゃく(官僚秘書)に招きます。そこからは生活も楽になり知見も広めることができました。

そのころ繆梓ぼくしの幕客には績溪せきけいの胡培系こばいけい、胡澍こじゅ、溧陽りつようの王晋玉おうしんぎょく、餘姚よようの周白山しゅうはくざんらがおり、これらの人々と議論をして研鑽を積み、兵事農政はもとより諸般の政治上の問題、塩政、運輸、郡県の政令などに精通する機会を得ました。

繆梓ぼくしが杭州で洪秀全こうしゅうぜんの軍に対して殉死じゅんししたとき、朝廷は彼を悪く言い恩典を与えませんでしたが、趙之謙は彼の恩に報いるため朝廷に書面を提出し、それが効を奏して恩典を与えられ、武烈ぶれつの諡おくりなも与えられることになりました。

1859年(咸豊かんぽう9年)、31歳のときに第3位の成績で郷試きょうし(科挙かきょの1段階目)に合格しました。

ただ当時、洪秀全こうしゅうぜんによる太平天国たいへいてんごくの乱らんがおこっており、次第に江南こうなん市に広がり、郷試に合格した翌年には杭州こうしゅう市が陥落かんらくしました。

紹興しょうこう市も危険なので、趙之謙の妻の范敬玉はんけいぎょくも家を出て避難しましたが、1862年(咸豊11年)2月、34歳のとき、妻が避難先で病気で亡くなり、同年9月に紹興しょうこう市も陥落し、趙之謙の故郷の家は兵火で焼かれてしまいました。

この年の冬、かれは杭州こうしゅう市から舟で福州ふくしゅう市まで避難しましたが、うちつづく不幸のなかでそれまで使っていた冷君れいくんという雅号がごうから悲盦ひあんと改めました。

1862年(同治元年)6月までは福州ふくしゅう市に滞在しましたが、同年夏には温州おんしゅう市にもどり、太平天国たいへいてんごくの乱らんも次第におさまってきたので、同治2年には心機一転して、北京ぺきん市へと上京しました。

北京ぺきんへは、繆梓ぼくしの門下で親友でもある能書家の胡澍こじゅも同行しました。北京では沈樹鏞しんじゅよう、魏稼孫ぎかそん(錫曾せきそう)などと親交を持ち、金石学きんせきがくに励みました。

また時の大官である祁寯藻きしゅんそうや毛昶熙もうちょうき、潘祖蔭はんそいんらに寵愛され、文章を作ることを依頼されたり、書画篆刻を求められたりしました。「煮字為粻」と自述するように、それらを売って十分に生活できるくらいに繫栄しました。

同治3年からは雅号を无悶むもんと改めていますが、おそらくこれまで鬱屈していた悲しみの感情がほぼ克服されたのではないかと想像されます。
このころは北京の収蔵家を訪ね、名跡や珍しい作品などをみることができ、鑑識眼、技術ともに伸びました。彼がもっとも充実していた時期であり、彼の芸術が豊かに花開いた時ともいえます。

北京には8年間滞在しました。その間に3回会試かいし(科挙かきょの2段階目)を受けましたが合格できず、ついに高級官僚となることを断念しました。

巡撫じゅんぶの劉坤一りゅうこんいつはかねてより趙之謙の才識学力を知っていたので、このとき『江西通志』の編集を依頼しました。趙之謙は誠意この編集にあたり、おおくの優れた助手をつかって180巻の大著を完成させました。

その後、1878年(光緒4年)50歳ではじめて江西省鄱陽はよう県の知県ちけん(県の長官、県知事)に任命されます。つづいて奉新ほうしん、南城なんじょうの県令を歴任しました。

彼は繆梓ぼくしのもとにいた青年時代から政治に精通していましたが、会試かいしに合格できなかったため、地方官である知県ちけんとして政治に専念し、1884年(光緒10年)10月に、56歳で病気で亡くなりました。

趙之謙の性格

趙之謙の性格は、屈強で自信家な面と、内省的な面の2つの面がみられます。

趙之謙は自信家だった

趙之謙は自信家だったという記録があります。

伝記のなかでは、
「盛気 近づき難く」(『寒松藝瑣録』)
「強肚きょうとにして 飲饌いんせん 人に兼まさり、厳冬と雖いえども、帽を脱し首を驤あぐれば、気蒸々として汗の流るるが如し」(『撝叔府君行略』)
とあります。

また、〔血性男子〕という自印を刻したり、「余 少わかきときは、気を負い、学を論ずれば必ず他人を疵そしり、郷曲からに悪にくまれた」(『亡妻范敬玉略』)と亡き妻范敬玉はんけいぎょくの事跡を述べた文章の中で告白しています。

さらに魏稼孫ぎかそんにおくった手紙に、自分の芸術を「天七人三」(才能7割、努力3割)といい、
また張鳴珂ちょうめいかには「生平の藝事、みな 天分 人力より高し。ただ治印は則ち天五人五、間然するなし」(『寒松藝瑣録』)といって、篆刻とともに自分の才能の高さを自負しています。

趙之謙は理論的に内省することもできた

趙之謙は自信家である一方で、書画における題賛、印の側款、手紙にみえる痛烈な批評や野中からは常に自分をきびしく律し、凝視する様子がよみとれます。

初期の雅号の「冷君れいくん」というのはみだりに人を許さず、自らを内省する孤高な人であったことを示しています。

その後、太平天国たいへいてんごくの乱らんのなか妻を病気で亡くし、趙家が火事にあうという遭難によって悲しみのあまり「悲盦ひあん」という雅号を名乗るようになります。

それからまもなく、科挙かきょの中央で行われる会試かいしを受験するために北京ぺきんへ出ますが、そこでの沈樹鏞しんじゅよう、胡澍こじゅ、魏錫曾ぎせきそうとの金石きんせきを中心とする交流は生まれつきの優れた感性のうえに、学問的裏付けが加えられ、あまり恵まれなかった趙之謙の生涯のなかでももっとも良い時期だったと思われます。雅号を「无悶むもん」(悶え無し)と改めます。

趙之謙の芸術は、「悲盦ひあん」を克服して「无悶むもん」にいたるという努力と精進の軌跡といってもいいでしょう。

趙之謙の作品

趙之謙の隷書作品「隷書張衡霊憲四屏」

隷書張衡霊憲四屏れいしょちょうこうれいけんしへいは、後漢時代の張衡の著とされる『霊憲』の一節を、趙之謙が隷書で四幅の屏風に書いたものです。

趙之謙の行書作品「行書七言古詩四屛」

行書七言古詩四屛ぎょうしょしちごんこししへいは、虎斑箋こはんせんに、七言古詩を行書で揮毫した四屏です。

趙之謙が亡くなる前年、55歳の作品です。趙之謙)が晩年に到達した「北魏書ほくぎしょ」を代表する、記念碑的な作例と言えます。

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