顔真卿は、中国唐時代に活躍した書道家です。
彼の楷書は独特な書風をしていることで有名で、その代表作品には「顔氏家廟碑」「麻姑仙壇記」「多宝塔碑」「顔勤礼碑」などがあります。
今回は、そのなかでも古来、書道初心者の手本としてよく用いられてきた「多宝塔碑」について解説します。
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多宝塔碑(たほうとうひ)について
多宝塔碑は、中国唐時代の752年(天宝11年)、顔真卿が44歳、武部員外郎在任中の作品です。
長安の千福寺に楚金褝師が舎利塔(お釈迦様の遺骨が納められた塔)を建てた経緯を勅命により記したものです。
碑はもともと陝西省興平県の千福寺にありましたが、明時代に西安の府学に移され、現在は陝西省博物館・西安碑林の第二室に保管展示されています。
螭首をもつ碑石の高さは約239㎝、幅127㎝で、亀趺(台)の上にたっているため全体の高さは3m近くもあります。
碑文は34行、毎行66字、全部で2000字あります。
螭首の中央には2行8字の隷書の題額「大唐多宝塔感応碑」が書かれています。
この題字は顔真卿の先輩徐浩(703~782・浙江越州のひと)が書いたもので、骨格のしっかりした見事な出来栄えです。
碑の文章は岑勛の撰です。
作者の顔真卿について
筆者の顔真卿(709~785)は、琅邪臨沂(山東省)の人。字は清臣。
学家に生まれた顔真卿は、早く父を失ったので、伯父および兄の允南から教育を受け、若いころから書をよくし、博学で辞章に優れていました。
743年(開元22年)には、科挙(官僚登用試験)に合格して進士となりました。
755年(天平14年)、安禄山の乱がおこったとき、平原太守であった顔真卿は義兵を挙げ、大功をたてました。
その活躍ぶりから武将のイメージが強いですが、もともとは文官で、玄宗・粛宗・代宗・徳宗の4代に仕え、書人としても初唐の三大家とあわせて四大家に数えられています。
顔真卿について詳しく知りたい方は「顔真卿(がんしんけい)について詳しく解説【彼の壮絶な人生、書風の特徴、書き方を解説」をチェックしましょう。
多宝塔碑の内容
多宝塔碑の内容を紹介します。
西京龍興寺の僧楚金(695~759)が静夜に法華経(お経)を唱えて修行中、多宝塔が目前に現れました。
その霊感に感激して多宝塔建立の計画をたて、許王瓘、趙崇、普意の賛助・寄付を受け、場所を千福寺に選び、742年(天宝元年)に着工しました。
翌天宝2年、朝廷から多宝塔の額をもらい、天宝4年に工事を完成、毎年春秋の2回、同行大徳49名を集めて法華三昧を修行することを恒式とする勅許を受けました。
また法華経、菩薩戒経、観普賢行経を血書し、皇帝や民衆のために1000部の法華経を書写して塔中に置いたこと、大量の舎利を感得したことなどを列挙し、さらに法華経がいかに優れたものであるかを述べ、法華経信仰に立つ楚金禅師の事業を称賛しています。
多宝塔碑の特徴
多宝塔碑は、顔真卿が壮年の時に書いたもののせいか、さらに後の楷書碑にくらべてやや固い感じがします。
用筆は厳正、字形は緊密で、一点一画をもゆるぎません。
入筆は蔵鋒、
晩年のような「向勢」の構えは現れず、縦画はどれも垂直、
「蚕頭燕尾」のはねは現れず、普通にはらっています。
この多宝塔碑は古来、書道初心者の手本としてよく用いられてきました。それは字形の整斉、法度をまもった書であることに加えて、碑の保存状態がよく、碑文がはっきりしていることが理由でしょう。
多宝塔碑(顔真卿)への評価
ここで、多宝塔碑(顔真卿)について評価した書論があるため紹介します。
或曰、公之於書、殊少媚態。又似太露筋骨。安得越虞褚而偶義献耶。答曰、公之媚非不能、恥而不為也。退之嘗云、羲之俗書姿媚。蓋以為病耳。求合流俗、非公志也。又其大露筋骨者、蓋欲不踵前蹟、自成一家。豈与前輩競其妥帖研媸哉。今所伝《千福寺碑》、公少為武部員外時也。遒勁婉熟、已与欧虞徐沈晩筆相上下。而魯公中興以後、筆迹迥与前異者、豈非年彌高学愈精耶。以此質之、則公於柔媚円熟、非不能也、恥而不為也。
『続書断』神品・顔真卿
ある人は、「顔真卿の書はなまめいた美しさに欠ける。またことさら筋骨を露呈しているようだ。このような書がどうして虞世南や褚遂良をさしおいて、王羲之や王献之に比肩できようか」と評価する。
それには、「顔真卿はなまめいた美しさを表現できないのではなく、恥じてそうしないのである。韓愈はかつて『王羲之の俗な書は見た目の姿の美しさに走ったのだ』と言った。その点を王羲之の欠点と考えたのであろう。世俗に迎合するのは、顔真卿の意図するところではない。また筋骨をことさら露呈するのは、先人の書風を踏襲せず、みずから一家をなそうとするものと思われる。現在伝わる《千福寺多宝塔碑》は、顔真卿が若くして武部員外郎になった時の作品である。力強く円熟しており、すでに欧陽詢・虞世南・徐浩・沈伝師の晩年の筆に匹敵するほどである。しかし、唐の中興以後、顔真卿の筆跡が一変したのは、年をとるにつれて書学にますます精通したからではないだろうか。このことから考えると、顔真卿はなまめいた美しさや円熟味を表現できなかったのではなく、恥じてそうしなかったのである」と答えよう。
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臨書に使える多宝塔碑の全文画像
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