盛唐の顔真卿は、東晋の王羲之とともに歴代の能書家の中の双璧とされています。
顔真卿の楷書は、独自性を強く打ち出した豪快な書風で、楷書の表現に大きな変革をもたらしました。
初唐の三大家(欧陽詢・虞世南・褚遂良)に顔真卿を加えて「唐の四大家」といわれます。
今回は、顔真卿とはどんな人だったのか、彼の書風について解説していきます。
顔真卿の概要
顔真卿は唐の景龍3年(709)に生まれ、785年まで生きた人です。
家は南北朝時代の北朝に代々仕え、学者を多く出した名門です。
また、顔真卿の家系には彼意外に有名な能書家が大勢います。
顔真卿、波乱の人生
そんな家柄で貴族でしたが、顔真卿が生まれたころは貴族とは名ばかりで、大変貧乏でした。
早くに父を亡くした顔真卿は、よく勉強をして、開元21年(733)26歳で科挙に合格します。
エリート官僚としての出発
科挙(官僚登用試験)に合格してから、さらに同24年(736)には史部の選考試験で優秀な成績を挙げ、朝散郎(文散官の1つ)と秘書省著作局校正郎(図書の管理官)を授けられます。
玄宗の天宝元年(742)9月、顔真卿は扶風郡太守の崔琇の推薦により、殿上で開催される「博学文詞秀逸」の考試にのぞみ合格し、これによって京兆醴泉県尉を授けられます。
天宝5年(746)年4月には、黜陟使(人事官)・戸部侍郎(財務次官)であった王錤の推薦により、長安県尉となります。さらに、翌年には監察御史に遷りました。
監察御史は朝廷の御史台に属し、全国の郡県を巡視し、地方行政に目を光らせる重要な役目です。時に36歳でした。
顔真卿は唐朝に対して非常に忠誠心を持ち、きわめて頑固な性格でした。しかし、当時の朝廷では上官に気に入られないと、なかなか出世できません。
この後、顔真卿の性格の影響によって中央から地方へ、地方から中央へ、という生活をくり返します。
1度目の左遷
1度目の左遷が天宝12年(753)、大規模な人事異動があったときです。顔真卿もその1人となって平原太守を命じられました。
顔真卿は時として「顔平原」と称されることがありますが、この官職名からきています。
権勢をほしいままにせんとする楊国忠が邪魔者を地方に追いやったとの説が有力で、顔真卿もその頑固な性格をきらって遠ざけられたと考えられます。
安史の乱の活躍
顔真卿は武将としても、安禄山が安史の乱(755年)を起こした時、平原太守として安禄山の軍とよく戦いました。
玄宗皇帝の時代は盛唐と呼ばれ、唐時代のなかでも文化が大きく発展した時期ですが、晩年になって皇帝の妻の楊貴妃を寵愛しすぎたため、度が過ぎた生活を送るうちに国家の規律が乱れ始め、ついに安史の乱を呼び起こすことになります。
安史の乱において、顔真卿の役割は、勇敢に戦うことによって安禄山側になびいた河北諸国を朝廷に向き直させること、禄山軍を背後から攻めて長安への進軍を阻害すること、さらに范陽にある禄山軍の南方への進軍を阻むことなど多くありました。
結果、顔真卿の平原は良く持ちこたえ、反乱軍の南方への進出を食い止めることに成功します。
朝廷復帰後すぐに2回目の左遷
乾元3年(760)にはいって早々に顔真卿は刑部侍郎として朝廷に戻されます。
刑部は法務次官にあたります。
2年ぶりの朝廷でしたが、またすぐ8月には蓬州長史に左遷されてしまいます。
当時、政府では宦官の李輔国が実権を握っていました。
李輔国は玄宗に対して警戒心を抱いており、そんな中で、玄宗を興慶宮(南内)から西内に封じ込もうとした際、顔真卿が多くの官を率いて見舞いに行きます。
これに怒った李輔国が意図的に、顔真卿を遠ざけたのです。
2年ぶりの中央復帰
粛宗(唐の第10代皇帝)を失ったことで李輔国の発言力が弱くなり、ほどなく李輔国は宮廷外に追放されます。
代宗(唐の第11代皇帝)の宝応元年(762)12月、顔真卿は戸部侍郎となり、銀青光禄大夫と上桂国(武官の最高の名誉職)が加えられました。
おおよそ2年ぶりの中央復帰でした。
3度目の左遷
永泰2年(766)に入り、顔真卿は宦官の宰相元載と衝突します。
元載の意見に対し反論した顔真卿は多くの賛同者を得ましたが、元載からは深い恨みを買ってしまします。
こうして、顔真卿は峡州別駕に降格し、2月9日に長安をあとにしました。
峡州は現在の湖北省宜昌、別駕は長史の補佐役で、実権のない小官です。
最後に中央復帰を果たすが、やはり疎まれる
各地方官を転々として友人との交友を楽しむうち、顔真卿は大暦12年(777)8月25日に朝廷より刑部尚書に任命され、12年ぶりの中央復帰を果たします。69歳のことでした。
翌年、大暦13年(778)3月に吏部尚書に改められ、顔真卿の存在感はますます高まります。
しかし、盧杞に政権が移った際に、顔真卿は太子太師に改めれます。これは皇太子の最高顧問にあたりますが、政権とは遠くなってしまいました。
そこで顔真卿は盧杞を訪ね、自分は小人から憎まれて地方の務めを多くしてきたこと、盧杞の父(盧奕)が殺されたときに、顔真卿によって手厚く葬られたことを伝え、それだけの因縁があるのだから何分にも手心をお加え願いたいと申し出ます。
しかし、これはかえって盧杞の恨みを深くすることになります。
この頃、各地の節度使が再び力を持ち始め、朝廷の意見を軽んじるようになります。
李希烈が反乱を起こしたとき、その時、盧杞にうとまれていた顔真卿は、行けば殺されるのが分かりながら、李希烈の軍に使者として派遣されました。李希烈も顔真卿が勇敢なことはよく知っていたので、何とか味方にしようと思いますが、いうことを聞かないため、ついに殺してしまいます。
こうして、顔真卿はひたすら朝廷に忠実な武将として活躍し、最後まで反乱軍に抵抗したため殺されてしまいました。
顔真卿のもう1つの顔
ここまで説明してきたように、顔真卿は長安の朝廷にいる時期と、左遷にあって中央政府から離れた田舎にいる時期があります。
朝廷にいるときには、皇帝と国家をひたすらに重んじる頑固な性格を貫く人であるのに対し、田舎で地方官になると、たちまち変貌し、土地の名士たちと身分の隔たりなく親しく交わり、仏家、道家、詩人との交わりを楽しみ、古跡を重んじる文人的性格を強く表しました。
仏教や道教に関しては、寺院や仙檀の筆跡を訪ねては修復に努め、その題記を自ら選書して石碑をたてさせました。
顔真卿の書風
顔真卿は波乱にとんだ人生を送りますが、王羲之の書風を、顔法と言われる書体で一変させました。
篆籀書法
篆籀とは漢代以前の古い字体である篆書(大篆、小篆)をさします。
顔真卿の家系は代々篆籀や、隷書のくずし形である草隷を得意としました。
蔵鋒用筆の線質や、いたる所にみられる、篆書を基礎とした異体字の使用は、能書家が多い家系である顔家の家学や六朝書の影響でしょう。
楷書に篆書の点画を組み入れることで、字体に古格を保つようにしました。
蚕頭燕尾
顔真卿の楷書の特徴は、「蚕頭燕尾」と言われています。また、「顔法」とも呼ばれます。
明朝体の活字などにもこの顔真卿の楷書の特徴が取り入れられています。
蚕頭とは、顔真卿の起筆(始筆)が角をなくして丸くおおきくなり、まるで蚕など、いも虫の頭のようであることをいっています。
また、燕尾とは右払いの筆先が、燕の尾のように2つに分かれる先が細く長く伸びている書き方を指します。
起筆を逆筆(たとえば横画を起筆するとき、一度右から左へ入ること)にして紙の奥深くへ打ち込めば、蚕頭が誕生します。
また、打ち込んだ力から反発する力を加えたまま送筆し、終筆で再び抑え込み、抑え込んだ力に反発して跳ね返ってくる力に従いながら払えば、細く長い燕尾が描きだされます。
顔真卿による新しい書風に対する“批判”もあった
顔真卿の書は、今では立派な書という評価が確立していますが、本人が生きていた時代から、死後300年後ぐらいまでは、あまり評価されていたとはいえません。それどころか悪くいう人たちもたくさんいました。
文字の姿から「項羽が兜をかかげ、樊膾が強弓を引っつかみ、鉄柱でも張ろうとしているが如くで、昂然として犯すべからざる気色だ」と言われたり、「頭は蚕(竪画の頭)で、尾は燕(右払いが2段になっている)だ」といわれたり、南唐の後主・李煜などは「書法は顔真卿が出で始めて壊れた」と嘆いています。
顔真卿の書は、王羲之を最上のものとする人々から見れば、とても不愉快なものだったでしょう。
しかし、社会的に変革の機運がでてきたときですから、芸術でも革新的な動きが出てきます。それは書道でも同じでした。
革新運動の中で復古的な動きも出てきて、篆書や隷書を書こうとする人たちも出てきました。そんな時に、顔真卿の書が多くの人から支持をされたのは、彼の書も立派だったからというのもありますが、それに加えて、彼の人格が尊敬されたからです。
ほぼ300年後に、蘇軾(蘇東坡)は「書は顔真卿によって、古今の変と能事が尽くされた」と最大の賛辞を送っています。
顔真卿は後継者に恵まれた
ここまで顔真卿の人生について解説し、彼の書風についても解説してきました。
顔真卿の書が晩唐期にかけて流行した理由として、柳公権という素晴らしい後継者に恵まれたからでもあります。
ぜひ柳公権についても調べてみてください。