造像記とは、仏像をつくる際に発願者、製作の由来などを仏像の横に刻したものをいいます。
龍門二十品は、北朝を代表する書跡として慎重されてきました。一画一画をゆるがせにしない筆づかい、質朴古拙さとただよう緊張感に、それらが名品とされた理由も納得させられます。
今回は、造像記のなかでも特に名品として挙げられる「龍門二十品」を紹介します。
造像記が刻まれた場所「龍門石窟」
龍門石窟は、世界遺産に登録されており、河南省の古都、洛陽の南郊14㎞ほどのところにあります。
石窟群は西南から北東へと流れる伊水という川を挟み、その東西両岸に対峙する石灰岩の岩山に堀り抜かれています。
谷間が長く狭く、両側の岩山が突出して、まるでそれが門のように見えることから、古くから伊闕(闕は門の意味)、または龍門(龍をは天子の意味)と呼ばれてきました。
洛陽は歴代の皇帝がよく都を置いたところで、北魏第6代孝文帝も494年(太和18年)11月、大同から洛陽へと遷都し、その翌年孝文帝や比丘慧成を中心に龍門石窟の開鑿が始められました。造営は唐時代中期(8世紀)まで続けられました。
龍門石窟が造られた理由〈平城から洛陽への遷都〉
龍門石窟が作られた理由は、494年の、孝文帝(北魏の第6代皇帝)による平城(いまの山西省大同市)から中原の洛陽へ都を移したことが影響しています。
北魏という国は、北方少数民族であるモンゴル系遊牧民が、勢力の大きい漢人を抑え込んで建てた国です。
そのため漢人をいかに権力内にとりこむか、いかに人々の心をうまくとらえるか、が最大の課題でした。
北の方にあった平城を捨てて南の方の洛陽に移ったのもその一環でした。
そこで人々の心をつかむのに使われたのが宗教の力です。北魏は大乗仏教によって民衆の教化、掌握をはかり、みずからの正統性を主張するよりどころとしたのです。
北魏の都がまだ平城にあった5世紀後半、平城から西20㎞の場所に雲崗石窟が国家的事業として造られ、広く尊崇を集めました。そのため都を移した先の洛陽においても、移り住んだ人々の心を満足させ、1つにまとめる代わりの石窟として龍門石窟が造営されたのでした。
龍門石窟は、そうした背景によって雲崗石窟の役割を受け継ぐものとして始まったのです。
北魏という国について
北魏は、中国大陸の西北部、蒙古方面から山西の大同付近にかけて牧畜に従事していたモンゴル系遊牧民が建国した国です。
彼らはもともと熱心な仏教信者でしたが、孝文帝のころ(5世紀)には一段と仏教が栄え、山西大同には雲崗石窟寺院が、やがて洛陽南郊に龍門石窟が開鑿されました。
この2つの石窟に彫られた仏像郡が優れた芸術性を誇る石造彫刻として美術史上、また宗教史上重要視されています。そうした仏像の近辺に刻された造像記が歴史の事実を後世に伝える重要資料となっています。
龍門石窟に刻まれた造像記「龍門二十品」を紹介
龍門石窟内すべての造像記は3689種あるとされています。多くの造像記のなかから、とくに優れたものを抜粋して四品、十品、二十品、五十品、百品などの呼び方がされています。
四品でいうと、「始平公」「孫秋生」「魏霊蔵」「楊大眼」の4つで、どれも龍門造像記を代表させるにふさわしい書風を誇っています。
そこからさらに優品10種類を選んで龍門十品、さらに10種類を増やして龍門二十品、そしてまた小品をも加えて龍門五十品…と名付けたものも存在します。
現在、もっとも一般に用いられるのは「龍門二十品」です。これをもって龍門造像記の代表作を精選したものと理解してよいでしょう。
以下では「龍門二十品」をそれぞれ紹介していきます。
1,牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)
牛橛造像記は、製作年代のわかる龍門造像記のなかでもっとも古いものです。
内容は、司空公・長楽王であった丘穆陵亮(451~502)の夫人尉遅が、先に亡くなった息子の牛橛のために弥勒像1体を造り冥福を祈ったものです。
丘穆陵氏は代々帝室と婚姻関係を結んでおり、孝文帝の側近として重要な地位にありました。
文字の特徴は、点画の起筆・終筆が明快で、字形はよく整い、品格が高く、情趣に富んでいます。
牛橛造像記について詳しくはこちらで解説しています。↓
2,一弗造像記(いちふつぞうぞうき)
歩轝郎張元祖の妻一弗が釈迦像一軀を造り、亡くなった夫がただちに仏国に生まれられるよう祈ったものです。
文字は北魏楷書として正しい筆法で書かれています。牛橛造像記の次に古い造像記で、わずか30字という小さなものですが、技巧の勝った優品と言えます。
3,始平公造像記(しへいこうぞうぞうき)
始平公造像記は、龍門造像記としては珍しい陽刻で、しかも筆者(朱義章)と撰文者(孟達)の名前が明記されています。
発願者の比丘慧成は龍門石窟寺を創建した高僧です。内容は創建の由来を述べ、亡き父の使持節・光禄大夫・洛州刺史の始平公を供養するために釈迦像一軀を造営したというものです。
文字は肉太ですが鈍重な感はなく、厳しさと量感とを併せもっています。側筆を思わせるほど線は角ばっていますが、悠々とした安定感があり、龍門造像記を代表する作品です。
4,北海王元詳造像記(ほっかいおうげんしょうぞうぞうき)
孝文帝の異母弟にあたる北海王元詳が生母高氏の発眼にもとづき、弥勒像一軀を造営し、母子の長寿、一門の繁栄、一切衆生に功徳を受けることを願ったものです。
元詳(476~504)は献文帝の第7子ですが、汚職、不倫がもとで位階を奪われ、造像記の造営から6年後の29歳で刑死しました。
文字は鄭道昭の摩崖に似て点画が柔軟であり、龍門二十品の中では筆意のよく暢達した雰囲気があります。
5,解伯達造像記(かいはくたつぞうぞうき)
伊闕の警備にあたる解伯達が弥勒像一軀を造り、国家の興隆・安穏、父母の長寿、一切衆生の幸福などを願ったものです。
警備が造像記を造っているという点から、造像の作成は各階層に広く浸透していたことがうかがえます。
文字は細字ながら、鋭い点画を筆路のよく暢達した風格があります。牛橛造像記に似た書風です。
6,魏霊蔵造像記(ぎれいぞうぞうぞうき)
河北鉅鹿出身の魏霊蔵と山西河東の薛法紹の2人が釈迦像1体を造り、皇道の永興、一門の繁栄、成仏を願ったものです。
筆路の暢達した、よく整った字形です。横画終筆部分に筆をはね上げる隷法がみられ、北方系のやや古様の風格があります。
龍門の代表作の1つで、四品のなかにも数えられています。
7,北海王国太妃高造像記(ほっかいおうこくたいひこうぞうぞうき)
北海王国太妃の高氏が、早世した孫の保のために弥勒像1体を造り、供養したものです。
保という人物については、いつ亡くなったのか明らかではありませんが、高氏が504年(正始元年)に元詳とともに刑死しているので、それ以前の造営になります。
文字は、円やかな姿、細味で柔軟な筆線が目立ち、元詳造像記に似た書風です。
8,楊大眼造像記(ようたいがんぞうぞうき)
楊大眼は、西域(甘粛成県)出身の勇者で、孝文帝に従って軍功をあげた人物です。楊大眼の信者会員の喜捨を集めて釈迦像1体を造り、亡き孝文帝の追善供養をしたものです。
下半分の損傷が目立ちますが、龍門四品の1つに数えられるように、その文字は骨力峻抜で、字形も整い、北魏の標準的な書ということができます。
9,比丘道匠造像記(びくどうしょうぞうぞうき)
比丘道匠が仏像6体を造り、皇道の隆盛、師僧父母の成仏などを願ったものです。
三角点の鋭い方筆ですが、横画の終筆をはね上げる隷法や、行書体があり、筆者の心の躍動が感じられます。
10,鄭長猷造像記(ていちょうゆうぞうぞうき)
鄭長猷は、孝文帝の南侵攻時に戦功があり、南陽太守、洛陽侯に除せられ人物です。内容は、亡き父演と母皇甫氏、児士龍のために弥勒像1体を造り供養したこと、また妾の陳玉女が亡き母徐氏のために喜捨供養したことが書かれています。
書風は二十品中では特異なもので、素朴で野趣に富みます。北魏書としては古様の姿を示すものです。
11,孫秋生造像記(そんしゅうせいぞうぞうき)
新城県の孫秋生、劉起祖の2人が主催し、会員200人の喜捨により釈迦像1体を造営したものです。483年(太和7年)からおよそ20年かけて完成したもので、願文末尾に撰文者(孟広達)と書者(蕭顕慶)の名前があり、よほど重要な造仏事業であったことがうかがえます。
文字は、上段は方筆の特徴を発揮し、龍門四品の1つに数えられるように重厚で勁健な書風ですが、中下段の歴名は別のひとの筆で、その書格は落ちるようです。
12,高樹解佰都等造像記
主催者高樹、解佰都など32人の喜捨により、菩薩像1体を造営し、祖先や各一族の成仏を願ったものです。
11番で紹介した孫秋生造像記に遅れることわずか3日でありその書風も似ています。しかし、孫秋生造像記に比べて規模は小さく、字間が狭く、見劣りします。
13,比丘恵感造像記(びくえかんぞうぞうき)
古陽洞の開鑿で活躍した比丘恵感が亡き父母のために弥勒像1体を造り、国家の永遠、仏法の興隆、師僧・父母・一族の幸福を願ったものです。
その書風は、6魏霊蔵造像記、11孫秋生造像記などに近いです。
14,賀蘭汗造像記(がらんかんぞうぞうき)
広川王霊遵の祖母侯氏が、亡き夫の賀蘭汗のために弥勒像1体を敬造し、供養したものです。侯氏は翌年にも弥勒像を造り、ともに二十品に数えられています(16広川王祖母太妃侯造像記)。
広い空間に大小の文字、行立て、文字の傾きが自由奔放に置かれており、筆者の自然な心の躍動が表出されています。
15,馬振拝造像記(ばしんぱいぞうぞうき)
信仰団体の主、馬振拝と張子成ら許興族34人が、皇帝の長寿と国家の隆盛を願い、宣武皇帝のために仏像事業に参加、喜捨したことを記しています。
この造像記は唐刻の優塡王造像記に代わり、龍門二十品に加えられたものです。その書風は龍門様式の特徴を有しています。
16,広川王祖母太妃侯造像記(こうせんおうそぼたいひこうぞうぞうき)
14賀蘭汗造像記につづき、広川王祖母の侯氏が弥勒像1体を造営し、幼孫広川王の永興、仏法の流布などを願ったものです。夫を失い、幼い孫を養育して王国を守らんとする立場にあって、仏にすがる彼女の不安な心境と、あつい信仰ぶりとがうかがえます。
17,比丘法生造像記(びくほうしょうぞうぞうき)
比丘法生は龍門造営に貢献した僧侶の1人と考えられています。孝文帝と北海王元詳およびその母高氏のために釈迦像1体を造り、供養したものです。
18,安定王元燮造像記(あんていおうげんしょうぞうぞうき)
安定王の元燮が釈迦像1体を造り、亡き祖父母および亡き父母を供養し、一族の成仏を願ったものです。
19,斉郡王元祐造像記(せいぐんおうげんゆうぞうぞうき)
仏教の功徳を説き、裕の人柄や仏教の教理に精通していることを述べているもので、斉郡王裕のために弥勒像1体を造営したものと思われます。
書風は温厚なまとまりで、ほかの造像記と雰囲気が異なります。
20,比丘尼慈香慧政造像記(びくにじこうえしょうぞうぞうき)
比丘尼の慈香と慧政とが仏像1体を造営し、仏教の功徳や衆生に幸福あらんことを願ったものです。
書風は龍門二十品のなかでとても特殊なもので、行草書体のような柔軟な用筆、細太のいりまじった変わった書風です。
龍門造像記の流行
龍門石窟は北魏人の信仰心の強さ、信仰集団の豊富さを物語るものですが、書道としての造像記の文字は、同じ石窟内の彫像に比べるとあまり注目されていませんでした。唐時代に褚遂良が伊闕仏龕碑(641)を揮毫し、杜甫は「遊龍門奉先寺詩」に、白居易は「修香山寺記」にそれぞれ龍門について詠んでいますが、この時期は造像記の書風について触れられていません。
書法の技術を重んじる帖学派の人々にとっては、三角・鋭角な線はノミで彫るからできるもの、あるいは石工の彫り損じであるとし、むしろ卑俗、粗野なものと無視していたからです。
書道として北魏の書風が注目されるようになるのは清時代の乾隆ごろからです。金石学の盛行につれて書作品としての面白さが謳われだし、龍門を著録するものが増えました。そして石窟研究の深まりとともに作品制作の面でも北朝の碑刻を尊ぶ風潮は栄え、やがて造像記の墨拓本が流行するようになりました。
繆筌孫『藝風堂金石文字目』の1100種をはじめ、呉式芬は932種、洛陽知事の曾炳章は1700種を集めたといいます。
楊守敬は『寰宇貞石図』に14種を縮印、そして開封の関百益は2000余種を詳備した目録『伊闕石刻図表』2冊を著わし、北魏造像記の大半を網羅しました。
清時代の書道史上においては、阮元の『北魏南帖論』『南北書派論』の影響を受けて碑学派が台頭し、包世臣、呉熙載、さらに北魏書と形容される趙之謙のような龍門様式の追随者を輩出しました。