法帖楷書中国の法帖書体

始平公造像記について詳しく解説・碑の内容や特徴、作者、全文現代語訳

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始平公造像記の基本情報

始平公造像記
始平公造像記

時代は北魏時代 太和22年(498)9月14日。大きさは縦89.0×横39.0。

内容は、国家の平和のため石窟時を造ること・龍門石窟の創設にかかわった高僧である慧成えじょうの父・始平公のために石像1体を造り、供養くようすることの2点について書かれています。

作者は、書者が朱義章しゅぎしょう、撰文者が孟達もうたつ

特徴として、ほかの龍門20品に比べて線が太いです。点画はとくに鋭く、筆遣いは側筆にみえる部分もあります。

始平公造像記がある場所は、中国・河南省にあるユネスコの世界遺産「龍門石窟りゅうもんせっくつ」の古陽洞こようどうにあります。

古陽洞こようどうの中のどの位置にあるかというと、北壁、上中下の3段ある大きい仏龕のうち上段、洞窟の入り口に最も近い位置にある仏龕ぶつがん(壁面に彫った仏壇)の右側に刻されています。

仏龕の右側に刻された始平公造像記
仏龕の右側に刻された始平公造像記
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始平公造像記は陽刻で彫られている

左:始平公造像記(陽刻) 右:牛橛造像記(陰刻)
左:始平公造像記(陽刻) 右:牛橛造像記(陰刻)

始平公造像記の文字は碑首の「始平公像一区」の6文字が2行と、全10行、毎行20字すべてが陽刻ようこく(文字の周りを彫って線が盛り上がる)で彫られています。

陽刻の造像記は龍門石窟のなかではとくに珍しく、全体的に見てもこのような例はとても少ないです。

本来、金石の刻字は金文にしても石刻にしても、また、古印にしても陰刻(文字を彫って、拓本にすると文字が白い)が普通です。

陰刻の方が作りやすく、文字の筆画が表現しやすく、保存にも適しています。

一方、碑の題額や墓誌の蓋などは陽刻の場合が多いです。

この題額や墓誌の蓋などが陽刻なのは、その成立の際に最初に作られるため、とくに大切なものとして装飾的工夫がされたからではないかと思われます。

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始平公造像記の「始平公」ってどういう意味?

始平公造像記の「始平公」とは人物のことです

始平公の「始平」は、地名(扶風郡、南白水郡どちらかの郡に属する県であるとされ、詳細は分かっていない)のことで、「公」はその地の公務に就いている人のことです。

この始平公が具体的に誰だったのかについでは、いろいろな伝記で推測されており、脩義・馮熙・賈儁などという人物が挙げられていますが、生きていた年代や当時の役職がずれていることから確かな情報はありません。

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始平公造像記の内容・釈門

(夫靈蹤□啓。則攀宗靡尋。容像不陳。則崇之必□。)
そもそも釈迦しゃかの行跡があらわされなければその教えを求めようとしても手掛かりがなく、仏像が造られなければ崇拝したくてもできない。

(是以眞顏□於上齡。遺形敷于下葉。)
そこで釈迦は上古の昔に出現され、そのお姿を後世にのこされたのである。

(曁于大代。茲功厥作。比丘慧成。自以影濯玄流。邀逢昌運。率渴誠心。)
いまこのすばらしき御代みよに至って、お姿を造ろうとしているそのとき、比丘びく慧成えじょうは身を仏教界に置き、国家の昌運にうことができた。

(率渴誠心。爲國造石窟時。□糸答皇恩。有資來業。)
そこでまごころをくし、国のために石窟寺を造り、わすかでも天子の御恩におこたえし、来世らいせの善業に役立てようとする。

(父使持節光祿大夫洛州刺史始平公。奄焉薨放。)
突然、我が、父、使持節・光禄大夫・洛州刺史の始平公しへいこうが逝去された。

(仰慈顏。以摧躬□。匪烏在□。)
父の慈顔を仰ぎ見れば、身もくだける思いである。

(遂爲亡父作る石造一區。)
そこで亡き父のために石造1体を造った。

(願亡父神飛三□。智周十地。□玄照。則万有斯明。震慧嚮。則大千斯瞭。)
願わくは、亡き父の霊の魂が解脱げだつし、その智慧ちえ十地じっちにあまねく、奥深いかがやきは万物を照らし、さとき仏の境地で三千世界を輝かさんことを。

(元世師僧。父母眷屬。鳳翥道場。鸞騰兜率。)
あわせて過去世かこせいの師僧および父母ふぼ眷属けんぞくが仏道に入り、おおとりらんのように兜率天とそつてん弥勒菩薩みろくぼさつが住む浄土)に飛翔せんことを。

(若悟洛人間。三槐獨秀。九棘雲敷。)
もし誤ってふたたび人間に生まれるのならば、三公や九卿のような高貴の人になって栄えんことを。

(五有群生。咸同斯願。)
訖すべての人々もこの願いを同じにせんことを。

(太和廿二年九月十四日訖。朱義章書。孟達文。)
太和22年(498)9月14日完成。朱義章しゅぎしょうの書、孟達もうたつの文。

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