牛橛造像記は造像記のなかでもっとも代表的なものです。
造像記の書法を学びたい人は、まず牛橛造像記から練習すると良いでしょう。
今回は、そんな造像記のなかでもっとも代表的な牛橛造像記について解説していきます。
また、造像記の正しい書き方について知りたい方は始平公造像記(しへいこうぞうぞうき)について詳しく解説・臨書作品の書き方・特徴、全文画像・現代語訳をチェックしましょう。
牛橛造像記の基本情報
牛橛造像記(ぎゅうけつぞうぞうき)は、正しくは「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅為牛橛造像記」と、とても長い呼び方をします。
牛橛造像記が建てられた時代は北魏の時代、太和19年11月(495)。龍門石窟のなかでもっとも古い造像記です。
作者は分かっていません。
場所は、中国・河南省にあるユネスコの世界遺産「龍門石窟」の古陽洞にあります。
内容は、息子を亡くした母親が冥福(故人の死後の幸せ)を祈る文章が書かれています。
特徴としては、どの字も直線的で角張った形をしています。
碑の大きさは66.0×33.4㎝、縦が約1メートルの大きさです。
牛橛造像記の碑がある古陽洞について
古陽洞は、龍門石窟のなかでもっとも古く、またもっとも大きい規模をもつ幅約6.8m、奥行約13m、高さ11mのドーム状の石窟です。
北魏・太和年末に比丘慧成が国家のために造営しました。
正面の奥の壁には釈迦仏と見られる坐像(座っている仏像)を中心として、両脇に立像菩薩(立っている仏像)が造られています。
左右(南北)の壁面は上中下3段に分かれており、上中段には大きい仏龕(壁面に彫った仏壇)が左右4つずつ連ねています。下段にも仏龕はあるのですが、未完成のものもあり、この部分は本尊が完成したあとに追加でつくられたもののようです。
この左右の仏龕には造像記を彫ったものがあり、その中には龍門造像記の名品「龍門二十品」のうち19品がここに収められています。牛橛造像記は、古陽洞北壁上層部、古陽洞の入り口にもっとも近い仏龕に彫られています。
この上中下3段の大きい仏龕の中間にも、たくさんの小さい仏龕が散在しています。なかには造像記が彫られているものもあります。また、洞に入って前後(南北)の壁上部にもたくさんの小さめの仏龕が造られています。これらを千仏といいます。
牛橛造像記の文字は、手書きにでは表現できない形状をしている
牛橛造像記の三角形の起筆、直線的な棒状の送筆部分、これは石を刻ることによって出現した形状で、手書きにはありえない極端な形状をしています。
同じ時代の残っている肉筆の文字と見比べてみると、忠実に再現することをめざして刻られた文字というよりも、明らかに彫刻による変形をともなった文字です。
この刻られた文字に下書きがあったのかどうかはわかりませんが、書かれた文字と刻された文字の間に大きな差があっただろうと推測されます。
牛橛造像記の内容・全文釈門
牛橛造像記の内容は、息子を亡くした母親が冥福(故人の死後の幸せ)を祈る文章が書かれています。
以下、釈門↓
(太和十九年十一月。使持節司空公長樂王兵穆陵亮夫人尉遲。爲亡息牛橛。請工鏤石。造此彌勒像一區。)
太和19年(495)11月、使持節・司空公・長楽王(役職名)の丘穆陵亮(人名)の夫人尉遅氏が、亡くなった息子の牛橛のために工人に依頼して石を彫り、この弥勒像(仏像)1体をつくらせた。
(願牛橛捨於分段之鄉。騰遊无礙之境。)
願わくは、我が子牛橛が輪廻の迷いの境界を離れ、自由自在の天上界に遊ぶように。
(若存託生。生於天上諸佛之所。)
もし託生できるならば、天上の諸仏のところに生まれるように。
(若生世界。妙樂自在之䖏。)
もしこの世に生まれ変わるならば、この上なく楽しく自由なところであるように。
(若有苦累。卽令解脱。)
もし苦患があるならば、すみやかに解脱するように。
(三塗惡道。永絶因趣。)
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)と永遠に絶縁するように。
(咸蒙斯福。)
一生の生きとし生けるもの、みのこの福をうけるように。
丘穆陵亮について
本文に出てくる丘穆陵 亮という人物について解説しておきます。
丘穆陵は胡族の複姓で、漢人の習慣に従って穆氏と呼ばれます。
北魏(国)に仕えた臣下で、帝室とは代々婚姻関係を結んでいます。
丘穆陵 亮は、字は幼輔といい、彼の経歴としては、北魏の第5代皇帝献文帝(465~471在位)のときに任官し、侍御中散となり、中山長公主(皇族女子)と結婚し、駙馬都尉となり、趙郡王に任命され、つぎに侍中、征南大将軍となり、長楽王に任命されました。また、第6代皇帝孝文帝(~499在位)のときに使持節となり、第7代皇帝宣武帝のときに司空公となり、景明3年(501)52歳で亡くなりました。
孝文帝の「弔比千墓文」の碑の裏側に、当時地位の高かった官職名が書きならべられているのですが、最高官の数名の第3位に「使持節・司空公・太子太傅・長楽公・臣江南郡丘目陵亮」と記されています。
これを見ても、とても位の高い地位にいた人物であったことが分かります。
このように丘穆陵亮は権力のある人物であり、その夫人が仏教への信仰が厚かったため、亡くなってしまった息子の牛橛にむけての文章が残されることになったのです。
牛橛造像記に対する評価
清の康有為は「広芸舟双楫」学叙第二十二において、
「体方にして筆圧、画平らにして豎直、宜しく先ず之(牛橛造像記)を学ぶべし」
といって、造像記を学ぶ人の最初に選ぶべき名品としています。
同じく清の汪鋆「十二硯斎金石過眼録」巻五にも、
「書法純正にして、率更(唐の欧陽詢)の筆法によって出るところである」
といっています。