日本において、呉昌碩の書画作品や篆刻作品を愛好する人は多くいますが、そのはじまりは明治・大正の時代に日本書道界の指導者として活躍した日下部鳴鶴(1838~1922)が世間に広く伝えたことがきっかけと考えられています。
今回は、呉昌碩と日下部鳴鶴の接点を解説していきます。
目次
日下部鳴鶴の呉昌碩訪問
日下部鳴鶴は、明治政府の書記官となり大久保利通に信任されましたが、大久保利通が暗殺され、その後は政界から離れ書道に専念しました。
書道に専念してからは、日本にやって来た楊守敬に書法を学び、つぎに鳴鶴自らが清国に行き、そこで呉昌碩と出会いました。
鳴鶴が日本に帰国した後も、呉昌碩との交流は続きます。
1897年7月には、呉昌碩が自作の詩「元日写梅」「払水巌看竹」を書いて鳴鶴に贈っており、この作品は「行書七言古詩一首・七言絶句二首」として呉昌碩の書作品でも見れます。
1903年には、鳴鶴の弟子である山本竟山が清国に渡り、呉昌碩の弟子である陳年(静山)に鳴鶴の肖像画を描いてもらい、同じ年の5月、楊守敬と呉昌碩がその絵に賛(その絵を称賛する文)を書いています。
そのほかにも、1917年に鳴鶴の80歳を祝う会が開かれた際には、呉昌碩は書作品と刻印を贈っており、
1922年、鳴鶴が亡くなった(享年85歳)際にも、呉昌碩は「日下部東作 徳配琴子之墓」と篆書で墓銘を書いています。
以上のことから、1891年に鳴鶴が清国に渡って以来、会っていない2人ですが、交流は途切れることなく、それを周囲もよく認識していたことでしょう。
最後に:鳴鶴の影響力はとても大きいものだった
当時、日本書道界の指導者として君臨していた鳴鶴の影響力はとても大きいものでした。
呉昌碩の書画作品や篆刻作品が日本において有名になったのには、日下部鳴鶴との交流が大きく影響しているのです。