日本の書家

【江戸時代の書道家】巻菱湖(まきりょうこ)について解説/巻菱湖の千字文の画像

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巻菱湖(まきりょうこ)についての基本情報

巻菱湖(まきりょうこ)は、江戸時代後期に活躍した書家です。生卒は1777年~1843年(安永6~天保14)。

名は大任たいにん、字は致遠ちえん、雅号ははじめ弘斎こうさいといいました。

出身地は越後国(新潟県)の巻(新潟市巻町)です。もともと苗字は「小山」でしたが、出身地にちなんで「巻」と名乗りました。

19歳のとき、江戸に出てきて亀田鵬斎かめだぼうさいの門に入りました。そこで儒学と漢詩を学び、書道や文字学も修めました。

幕末の三筆」の1人。市河米庵いちかわべいあん貫名菘翁ぬきなすうおう・巻菱湖。市河米庵いちかわべいあんは巻菱湖より2歳下、貫名菘翁ぬきなすうおうは1歳下です。

巻菱湖の人生

巻菱湖の人生を紹介します。

巻菱湖の子供時代は、実の父、義理の父を失い、さらに母を自殺で失う不幸な人生でした。

しかし、19歳で江戸に出ててきてからは、書家として成功を成しとげ、書道活動に没頭する人生を送りました。

巻菱湖は複雑な家庭環境に生まれる

巻菱湖まきりょうこは、江戸時代の1777年(安永6)に越後国(新潟県)の巻町で生まれました。

巻菱湖の父は館徳信たちのりのぶ(1739~1786)という人です。父の館徳信は、館安左衛門の女性と結婚して、1746年(明和元)に政富(1764~1824)が生まれました。

また、1777年(安永6)に館徳信たちのりのぶと妻ではない福井村の内藤安右衛門の女性との間に巻菱湖まきりょうこが生まれました。つまり巻菱湖の母は、徳信の妻ではないのです。母の名前もわかっていません。巻菱湖は夫婦でない男女の間に生まれた私生子しせいしなのでした。

巻菱湖まきりょうこは、母方の家、つまり福井村の内藤家へ母とともに引き取られました。内藤家では新潟の池田佐左衛すけざえもんの子、忠七ちゅうしち婿むこに迎えました。巻菱湖の母は忠七ちゅうしちと結婚して、父でない忠七が菱湖の父となりました。

実父の館徳信たちのりのぶは、巻菱湖が10歳のときに亡くなったため、2人は会ったことがないと考えられています。

子供時代に義父と母を亡くす

巻菱湖まきりょうこの母は、忠七ちゅうしちと結婚し、忠七が巻菱湖の義理の父となりました。

しかし、忠七がすぐに亡くなってしまいます。そこで忠七の父、佐左衛門すけさえもんが巻菱湖と母を新潟の家へ引き取ってくれました。佐左衛門すけさえもんの家は、やってくる船の荷物を保管して手数料を得たり、またその荷物を売りさばいたりする播磨屋はりまやという廻船問屋かいせんどいやで栄えていたようです。

さらに、1791年(寛政3)8月2日、巻菱湖が15歳のとき母を亡くします。新潟の廻船問屋の津軽屋の婚礼に招かれなかったことを恨んで、津軽屋の家の前で自殺したのです。

佐左衛門すけさえもんの裕福な家に引き取られはするものの、身近な実父、義父、母を亡くすという不幸が続いたのでした。

19歳のとき、新潟から江戸へ

1795年(寛政7)、19歳の巻菱湖まきりょうこは青雲の志を抱いて新潟から江戸へ出ます。

江戸では、亀田鵬斎かめだぼうさいの門に入り、儒学を学びました。

しかし、ちょうどそのころ1790年(寛政2)「寛政異学かんせいいがくきん」が発令され、朱子学しゅしがく以外の異学(陽明学・古義学・古文辞学・折衷学・考証学)が禁止されます。異学を学んだものは幕府・諸藩に仕えることができなくなりました。

亀田鵬斎かめだぼうさい折衷学せっちゅうがく派に属していたため、門生たちは就職することができなくなってしまいました。巻菱湖は就職して出世することを断念して、得意だった書道で生計を立てようと考えます。そして、亀田鵬斎からは書道や漢詩を学ぶことに努めました。

書道はいくら上達しても、書家として生計をたてるのは難しいことです。書道塾を開いてもなかなか弟子は集まりません。まだ無名の巻菱湖には揮毫の依頼もありません。

そのため、巻菱湖は版下はんしたを書いて生活しました。

版下はんしたとは、印刷工程において刷版の元になる原稿のことです。当時の版本は、まず版下を書き、それを裏返しにして版本に張りつけて、版本に文字を刻していました。

版下は誰にでも読みやすいように書かなければなりません。巻菱湖の文字は字形がよく整っていて、読みやすく高評価でした。

書家として活躍していく

巻菱湖まきりょうこは文字を学ぶだけでなく、漢時の書体についてよく研究した人です。

その結果、1805年(文化2)29歳のとき、『十体源流』を著すことができました。十体というのは書体のことで、古文こぶん大篆だいてん小篆しょうてん古隷これい章草しょうそう八分はっぷん(隷書)・今隷きんれい(楷書)・行書・今草きんそう(草書)・破体のことをさします。それぞれの書体の源流が書かれています。

1807年(文化4)31歳のとき、軽子橋かるこばしのわきに一家をかまえ、書道塾を開きました。その教室名を「蕭遠堂しょうえんどう」といいます。

また、この年の7月27日には「書画之雅莚」すなわち書画会を開きました。これは作品を書いての生活ができるようになったことを示しています。

1812年(文化9)36歳のとき、江戸を出て、信濃国(長野県)をへて越後国(新潟県)へ入り、約3年間各地を遊歴しました。当時の書家は各地を遊歴して、行く先々で作品を書いて、揮毫料を得ていました。巻菱湖も当時書家として地方でも有名になっていたため、いたるところで揮毫の依頼があり、多額の揮毫料を得ていました。

36歳で江戸を出て、39歳になって江戸に帰ってきます。菱湖は住まいを軽子橋かるこばしから鉄砲洲てっぽうずへ移し、書道塾「蕭遠堂しょうえんどう」はますます繁栄しました。

1821年(文政4)、伊勢国(三重県)の津(津市)の藩主藤堂高兌とうどうたかさわ(1781~1824)が巻菱湖の弟子になりました。大名が弟子になったということで巻菱湖の盛名はますます高まり、そのあとも大名・旗本で彼の弟子になるものがたくさんいました。

巻菱湖の晩年

巻菱湖の晩年は書家として有名になり、引き続き多くの揮毫の依頼をうけています。

1832年(天保3)、武蔵国狭山さやま(埼玉県入間市)の『重闢茶場碑かさねてひらくちゃじょうのひ』の碑文を書きました。狭山は狭山茶の産地として有名です。石碑は、埼玉県入間市の出雲祝神社に建てられており、入間市の文化財指定となっています。

1837年(天保8)、『今文孝経きんぶんこうきょう』の碑文を書きました。この碑は伊勢国の豊受大神宮(外宮)の宮崎文庫に建てられています。

天保(1830~1843)の中ごろから巻菱湖の手本がたくさん刊行されました。巻菱湖は書家としてもっとも有名であり、そのうえ、巻菱湖の文字は技術が高く、癖のない文字であることから、多くの人に愛好されました。

1843年(天保14)4月7日、巻菱湖は67歳で亡くなりました。お墓は東京都大東区谷中の谷中霊園にあります。墓石には「巻菱湖先生之墓」と刻されています。

巻菱湖が亡くなってからも彼の手本は続々と刊行されました。

巻菱湖の肖像について、巻菱湖は自身の肖像を描くことを高久靄崖たかくあいがい(1796~1834)に依頼しましたが、高久靄崖が巻菱湖を訪ずれたすぐあとに亡くなってしまったので、巻菱湖の肖像は描かれなかったそうです。

巻菱湖の性格

『当世名家評判記』前編、巻下に、巻菱湖は
「上方へお登りのせつも評判がようございました。行筆は近世に稀なる名筆でござります。江戸での名家の親玉でござります。」
と、江戸で一番の書家と書かれています。

しかし、性格面では、評判はあまりよくなかったようです。

巻菱湖は高慢な人だった?

巻菱湖は、よく喧嘩をするので人に嫌われたという話があります。

松本奎堂(1830~1863)は、巻菱湖は
「気概を以て自ら高うし、往々にして酣酔淋漓かんすいりんり罵詈叱咜ばりしった、剣を抜きて柱を切る。人皆以て狂と為す。大任(巻菱湖)意とせざる也。」
と言っています。
粗暴で、口が悪くて、高慢で、人は狂といいましたが、巻菱湖は気にしていなかったそうです。

また、ある人が能書の空海くうかい(774~835)が書写したといわれる写経を持ってきて、巻菱湖に鑑定を求めました。

巻菱湖はその写経を見て、値段を尋ねたので、
「百りょう
と答えると、菱湖は笑って
「なんだ、糞坊主くそぼうずの悪筆が百両か。俺の書がこの頃にあったら、今はさしずめ千両じゃ」
と言ったと言い伝えられています。

お酒が大好きだった

安西於菟(1807~1852)の『日本名家画談』に、
「菱湖はなはだ酒をたしなみて鯨飲げいいんす。しかして常に酒失(酒の上での過失)多かりしかば、人おそれて近づかず」
と書かれています。

巻菱湖は、大酒のみで、酒癖がわるかったようです。

「幕末の三筆」のうち、市河米庵いちかわべいあん巻菱湖まきりょうこの2人は当時の第一級の書家として尊重されていました。2人とも揮毫の依頼が殺到していたため収入はたくさんあります。その収入の使い方に2人の性格の違いが現れています。

巻菱湖は収入をほとんどお酒に費やしました。

一方、市河米庵はお酒におぼれることはなく、得た収入で書・画・筆・墨・硯などをたくさん買い集めました。そして『小山林堂書画文房図録』を刊行しました。

書家としての巻菱湖

巻菱湖は幼少のころは新潟の寺町にある善導寺の興雲こううんに書道を習い、19歳で江戸に出てきてからは亀田鵬斎かめだぼうさいに学びました。

楷書は中国とう欧陽詢おうようじゅん
行書はげん趙孟頫ちょうもうふみん董其昌とうきしょう、さかのぼって漢の蔡邕さいよう
草書は東晋とうしん王羲之おうぎしとう李懐琳りかいりんを学んだといわれます。

とくに楷書を得意としました。

隷書は当時としては早く「曹全碑そうぜんひ」を学びました。

書道教室を開く

敷地の軽子橋のほとりに書道教室を開いて書道を教えました。

巻菱湖は、お酒が好きで、放逸な人柄で知られ、門人は1万人もいたといいます。

同じ「幕末の三筆」の1人、市河米庵いちかわべいあんと巻菱湖とは江戸の書道界を二分していたと言われています。2人とも書家としてもっとも尊重されていました。

市河米庵いちかわべいあんは巻菱湖より2年おくれて生まれましたが、書家として早く有名になったのは米庵の方でした。江戸生まれの米庵と田舎出の菱湖、さらに米庵の父は詩人として有名な市河寛斎いちかわかんさいです。米庵のほうがなにかとつけて有利なのでした。

市河米庵は武士など上流の門人を多く集めたのに対し、巻菱湖は下町の庶民が門人の中心であったことから、江戸末期から明治初期までその書風が広く書かれました。一方、やや俗っぽい面があるともされます(生活に困って板本の版下書きをしていたこともあったという)。

巻菱湖が後世に与えた影響

巻菱湖の手本類の出版は200種類にも及びました。

後世への影響は大きく、明治時代の学校教育での教科書、手本の多くは巻菱湖の書風です。

門人に生方鼎斎うぶかたていさい大竹蔣塘おおたけしょうとう萩原秋巌はぎわらしゅうがん中沢雪城なかざわせつじょう、養子の巻菱譚まきりょうたんらがおり、明治書壇に影響を与えました。巌谷一六いわやいちろく西川春洞にしかわしゅんどう豊道春海ぶんどうしゅんかいなども巻菱湖の系列です。

巻菱湖の楷書/千字文

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