中国の書道は、明時代末から清時代の初期にかけて、これまでの伝統的な書風にこだわらない個性的な表現に向かいます。
革新的な書家が多くあらわれ、縦長の長条幅作品・書風は連綿草の表現が流行しました。
今回紹介する張瑞図もその1人です。張瑞図について紹介し、作品の特徴、作品紹介をします。
張瑞図の基本情報
張瑞図(1570~1641)は、中国明時代末に生きた人で、書道においては新しい流行の先駆的存在です。
字は長公・无画、雅号は二水・果亭山人・芥子居士・白豪庵道者ほか。唐王の政権時代に文隠と諡されました。
福建省泉州の農家に生まれました。
張瑞図の人生/彼はどんな人だったのか
高級官僚としてのキャリア
万暦35年(1607)、38歳で科挙(官僚登用試験)に合格して進士となりました。
殿試第三席(探花)に及第、はじめは翰林院で編修の官に任命されました。
つぎに庶士、少詹事兼礼部侍郎を歴任し、天啓6年(1626)57歳のとき礼部尚書の高官となり、行政の中核に加わりました。
宦官の魏忠賢に可愛がられる
明時代は宦官の悪事が有名ですが、宮廷の浪費による財政窮乏、国内政治の傾き、周辺に住んでいた異民族の侵入、それにともなう増税と宦官の悪逆など、やがてこれらにより明王朝が滅亡することとなります。
宦官とは、去勢(性器を切除)した男性のことで、皇帝や后たちの身の回りの世話をしました。宮廷では宦官が集団的な勢力を形成し、政治にも関与していきました。
当時、宦官の魏忠賢が権力をふるっており、張瑞図は書が優れているということで特別に可愛がられました。
しかし、毅宗(明の第17代皇帝)が皇帝に即位すると、それまで権勢を振るっていた魏忠賢は罪状を問いただされ、避難され、自殺に追いやられてしまいます。張瑞図もその一党(閹党)とみなされ、罪や不正を問われ、崇禎元年(1628)に辞職しました。
魏忠賢の失脚につづいて張瑞図も官職を剥奪される
一旦は毅宗皇帝にいたわれ、太保の官位を贈られて帰郷していましが、崇禎2年(1629)60歳の時、かつて魏忠賢の生祠(存命中の人間の霊を祀る)の扁額を書いたり、彼にへつらう屏風まで贈っていたことが発覚し、官職を剥奪され平民に落とされてしまいました。
その後、郷里に帰った彼は禅に心を寄せ、酒を好み、菊を愛で、詩書画の悠々自適の余生をおくり、崇禎14年(1641)、72歳で亡くなりました。
張瑞図の書法の特徴
張瑞図は帰郷以前からすでに、邢侗・米万鍾・董其昌とともに「明末の四大家」と称されていましたが、閹党の汚名が付けられてからは、彼の作品は蔑視され、清時代末までは不当に評価を下げられました。
張瑞図は、二王(王羲之・王献之)を学んだとか、孫過庭、蘇軾を学んだといわれます。
現存している長条幅や巻子本を見てみても、その書風のもととなった古典は分かりません。伝統書法ではない書法を目指した結果なのかもしれませんね。
いずれにしても張瑞図の書風は、ナイフで切りつけるような鋭いタッチ、筆圧や遅速の変化がおおいリズム、内側への収束と外側への放散の小気味よい造形といった点で、独創性を備えています。
張瑞図の書風の特徴を挙げていきます。
- 横画は細く鋭い起筆から、右上がりに一気に流動的に運筆している。
- 転折は丸みを帯びず、角張らせて直角に下に折り、横画から来た筆圧をそのまま反転する用筆などがある。
- 横画は振り子のようなリズムで左右に動きながら、下へ下へと続いている。
- 筆圧、運筆の緩急、線の太細などの多彩な変化で、力動感を表現している。
- 運筆が振り子のような左右へのリズムのため、文字の最終画を縦に長く伸ばした線は、全体に変化をつけるために有効である。

釈門:遠岸凍雲落,高林寒日斜。前村昨夜雪,聞説有梅花。

