嵯峨天皇(さがてんのう)は、平安時代初期の重要な文化人であり、書道の才能でも高く評価されています。
彼の代表的な作品には、「光定戒牒」や「般若心経」、「李嶠雑詠」などがあり、その筆跡には中国唐時代の文化への強い影響が見られます。
また、嵯峨天皇は空海と深い文化的な交流を通じて、唐からの書跡や詩文を取り入れ、書道の世界でも大きな影響を与えました。
本記事では、嵯峨天皇の代表作品や空海との関係を通じて、彼の書道と文化への貢献を詳しくご紹介します。
嵯峨天皇とは
嵯峨天皇は、桓武天皇の第二皇子として長岡京で生まれ、809年(大同4年)4月に兄である平城天皇の後を継いで即位しました。
幼い頃から読書が好きで、成長するにつれて中国の経典に興味を持つようになり、漢詩や文章にも優れていました。彼の作品は『凌雲集』や『文華秀麗集』に多く収められています。
また、嵯峨天皇は唐の文化を非常に好み、儀式や服装などを唐風に整えるだけでなく、書道にも深い関心を持っていました。その書風には初唐の書家たちの影響が見られます。
嵯峨天皇と空海の関係
806年(大同元年)に中国から帰国した空海は、嵯峨天皇から屏風両帖を賜り、その屏風に劉義慶が編纂した『世説』8巻から選んだ美しい文章を揮毫して献上しました。これが809年(大同4年)10月のことで、当時空海は36歳、嵯峨天皇は24歳でした。
同じ時期、空海は中国で恵果(中国唐代の密教僧で日本の空海の師)から真言密教の奥義を授かり、それをもとに鎮護国家の修行を高雄山寺で行いたいという願いを上表文で提出しました。そして11月1日からその修行を実際に始めました。このことが、空海と嵯峨天皇を結びつける重要な接点となりました。
空海はこれまでに19通の上表文を嵯峨天皇に提出しています。たとえば、以下のようなものです。
- 「劉希夷が集を書して献納する表」弘仁2年6月(811年)
- 劉希夷の詩集を空海が書き写し、献上した上表文。
- 「雑書迹を奉献する状」同年8月
- 雑多な書跡を献上した際の上表文。ここで空海はさまざまな書風や文書を披露している。
- 「劉廷芝が集を書して奉納する表」同年月日不明
- 劉廷芝の詩集を書き、嵯峨天皇に献上した上表文。
- 「筆を奉献する表」弘仁3年6月(813年)
- 書道に使う筆を献上した際の上表文。空海が持ち帰った書道具の一部を献上したとみられる。
- 「雑文を献ずる表」同年7月
- 詩文や雑文を献上した際の上表文。空海の文化的な交流の一環として、さまざまな文書を献上している。
- 「梵字并びに雑文を献ずる表」弘仁5年7月(814年)
- 仏教に関連する梵字(サンスクリット文字)や雑文を献上した上表文。空海が仏教的な知識も天皇に紹介していたことがわかる。
- 「勅賜の屏風を書し了って即ち献ずる表 詩を并せたり」弘仁7年6月(816年)
- 嵯峨天皇からいただいた屏風に書を揮毫し、詩を添えて献上した際の上表文。
これらの上表文から、空海が唐から持ち帰った書跡や詩文、雑文、筆などを少しずつ嵯峨天皇に献上していたことがわかります。嵯峨天皇は空海が優れた書家であることを認め、屏風に書を揮毫させていたことがわかります。
こうして、唐の文化に強い関心を持ち、漢詩や漢文に秀でた文化人であった嵯峨天皇は、初めは書や唐からの献上品を通じて空海と親しくなったと考えられます。
さらに、弘仁5年(814年)には、嵯峨天皇は高雄山にいた空海に綿百屯と詩1首を下賜し、空海は感謝の詩を捧げました。また、弘仁7年(816年)「弘法大師御厄を祈誓せし表」の上表文によると嵯峨天皇の病気の平癒を願って、空海が7日間の加持祈祷を行っています。
このように、絶大な政治的権力を持つ嵯峨天皇と、真言宗を大成した空海の関係は徐々に深まり、特別な信頼関係が築かれていきました。その象徴として、弘仁7年(816年)「紀伊国伊都郡高野の峯にして入定の処を請け乞うの表」に空海は高野山に寺院を建てるための土地を求め、嵯峨天皇から許可を得ています。これは空海が、若い頃に行った山での修行を弟子たちにも経験させたいと願ったものでした。
嵯峨天皇は幼い頃から書道を学び、書の才能が高く評価されていましたが、天皇の真筆である「光定戒牒」を見ると、空海が唐から持ち帰り、献上した唐の書跡、とくに欧陽詢の書風を学ばれていたことが明らかです。さらに、その中には空海特有の文字も見られます。嵯峨天皇は空海の書に非常に傾倒していたため、天皇が勅賜の屏風に詩を書かせて献上させるほどでした。このため、天皇の書に空海の字形や筆法が現れているのは、意識していたかどうかにかかわらず、自然なことと言えるでしょう。
嵯峨天皇の代表作品
嵯峨天皇の筆跡は「光定戒牒」「般若心経」「李嶠雑詠」の3点が伝わっています。
光定戒牒(こうじょうかいちょう)
嵯峨天皇の代表的な作品として「光定戒牒(こうじょうかいちょう)」が挙げられます。これは823年、嵯峨天皇が38歳の時に書かれたものです。
この戒牒は、最澄の弟子である光定(779~858)が延暦寺の一乗止観院で大乗菩薩戒を受けた際に授けられたもので、戒律を受けた証としての書類です。光定が嵯峨天皇に深く信頼されていたため、特別に授けられたものと考えられています。
この書が嵯峨天皇の直筆だとされる理由の一つは、光定自身が「伝述一心戒文」の中で「天皇が自らの筆で私に戒牒を書き、勅命として賜った。それは永遠の宝である」と述べている点です。
また、この戒牒の末尾に署名している藤原三守は、10年後に円珍(智証大師)の戒牒にも署名していることも確認されています。
さらに、この戒牒に使われた料紙は「縦簾紙(じゅうれんし)」と呼ばれる白麻紙で、これは唐から伝わった紙で、平安時代の初期にかけてごく一部の特別な人物しか使用できませんでした。光明皇后の「楽毅論(がくきろん)」や空海の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」にもこの紙が使われていたことから、嵯峨天皇の真筆であるとされています。
「光定戒牒」の特徴としては、行書と草書が交じり合い、ところどころに大きな文字が配置されている点が挙げられます。
この特徴は空海の「風信帖」にも見られます。
般若心経(はんにゃしんぎょう)
『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、紺色の綾(あや)布に銀泥で枠線が引かれ、経文は金で書かれています。
伝えられるところによると、一字三礼(一文字書くごとに三度礼をする写経方法)で書写されたといいます。
いくつか文字がはっきりしない部分もありますが、全体としては欧陽詢の書風に似ています。
李嶠雑詠(りんきょうざつえい)
そのほか、嵯峨天皇の書と伝えられているものに、「李嶠雑詠(りんきょうざつえい)」があります。
李嶠は、7世紀末から8世紀初めにかけて活躍した政治家であり、詩文の名手としても知られています。この作品は、李嶠の詩を行書体で書写した断簡(書物の一部分)です。
また、縦簾紙の白麻紙に書かれていることから、天皇自らの筆跡ではないかとされていますが、現在のところ確かな証拠はありません。