皇甫誕碑について解説
皇甫誕碑は、皇甫誕という人物の功績を称える内容の碑です。
碑文は于志寧が撰文し、文字は欧陽詢が揮毫しました。
碑が建てられた年月の記載がないため、欧陽詢が何歳のときの作品なのかは分かりませんが、晩年のころとされています。
額に篆書の題字12字「隋柱国弘義明公皇甫府君碑」が陽刻され、碑文は28行、毎行59に並べられています。
欧陽詢の楷書作品の中でもとくに、文字の線が細めに彫られています。
皇甫誕について
碑の主人公、皇甫誕について紹介します。
皇甫誕(554~604)は隋王朝に仕えた名臣で、字は玄憲、安定朝那(陝西省)のひとです。
官としては、まず広州刺史、益州総管府司法を授けられ、つぎに治書侍御史に移り、大理少卿、尚書右丞を授けられ、やがて河北河南道の安撫大使となり、その功によって尚書左丞という高位にまでのぼりました。
晩年にいたり、楊諒が幷州に兵を起こして反乱したとき、彼は節を守ってそれに従わず、しばしばその非を諫め、かえって諒の軍に敗れて殺害されてしまいます。仁寿4年9月、51歳のときでした。
隋の煬帝(隋朝の第2代皇帝)は深くこれを嘆き悲しみ、柱国左光禄大夫を贈り、弘義都公に封ぜられ、明公と諡されました。
やがて唐代になると、皇甫誕の子・無逸が父の功績や善行などをたたえて世間に知らしめるために建てたのがこの「皇甫誕碑」です。
皇甫誕碑は欧陽詢が最晩年期に書いた作品とされる
皇甫誕碑には立碑年月の記載がなく、その年代が問題となっています。
しかし、筆者欧陽詢の官名に銀青光禄大夫とあり、別の作品の「温彦博碑」にもこの官名があるので、温彦博碑とほぼ近い年、すなわち貞観11年(637)前後の作品と考えられています。
欧陽詢は557年~641年の85歳まで生きた人なので、637年は最晩年期にあたります。
皇甫誕碑の特徴・書き方
皇甫誕碑を書いた欧陽詢の楷書は「楷法の極則」といわれ、美しさと緻密さを兼ね備えています。
欧陽詢の楷書では、九成宮醴泉銘・化度寺碑・温彦博碑・皇甫誕碑の4作品がありますが、今回紹介した皇甫誕碑は、とくに右上がりが強く、字形が緊密で、筆画もとくに力強いです。
欧陽詢の楷書の特徴については、こちらの九成宮醴泉銘についての記事でくわしく解説しています。↓