曹全碑の内容は、曹全という人物の官僚・武将としての功績を記したものです。
本記事では曹全碑の日本語訳を紹介します。
曹全碑 全文 日本語訳
君は、諱は全、字は景完。敦煌效国の出身の人です。その先祖は、おそらく周室の末裔でしょう。武王は、天子になる機会をとらえて、殷商を討伐しました。天下統一の勲功を成し遂げるにあたって、天からの幸運が集まったのです。弟の叔振鐸に曹国の領土を与えて諸侯にすることで、一族はその国名を氏としました。秦漢の頃には、曹参は漢の王室をそばから助けました。世宗武帝が領地を拡げた後、子孫は雍州の郊外に移り住み、また分かれて右扶風にとどまり、あるいは安定にあり、あるいは武都におり、あるいは隴西に住居を定め、あるいは敦煌に家を持ちました。まるで木が枝分かれして葉を広げていくように、いろんな場所でその地の実力者となったのです。
君の高祖父曹敏は、考廉に推薦され、武威長史、巴郡朐忍令、張掖居延都尉になりました。曾祖父曹述も、考廉、謁者、金城長史、夏陽令、蜀郡西武都尉となり、祖父曹鳳は、考廉、張掖属国都尉丞、右扶風隃麋候相、金城西部都尉、北地太守となりました。また、父曹琫は、若くして州郡に名声が高かったのですが不幸にして早世しました。このように位は(早世したために)その徳にそわないのでした。
君は、幼少より学問を好み、奥深い(意味深い)書物を探求して、通じない文はありませんでした。賢孝の性質の根(生まれながらの)は心から生じます。祖父の妾に引き取られ、継母に仕えましたが、何も言われないうちに相手の気持ちを察し、望みをかなえて満足させ、また存命中の者、すでに世を去った者を敬って、その礼にはまったく欠けたところがありませんでした。それゆえ村人は「親を重んじ勧を致す曹景完。易世徳を載して其の名を䧎とさず」という諺を作って讃えたのです。政治にあずかるようになってからは、清廉さでは伯夷・叔斉を手本とし、まっすぐな行いでは史魚を慕いました。郡の重要な職である上計掾史をへて、そののち涼州刺史に招かれて、そこで治中別駕となったこともありました。そして、万里を治め、正邪(善悪)を誤ることはなかったのです。州内の諸郡を治めるに及んでは、曲がったこと、邪なことを糾弾したので、貪婪な者はみな心を改め、同僚はその徳に信服し、遠きも近きもみなその威を憚り恐れました。
建寧2年(169)には考廉に推薦され、郎中に任命されました。西域戊郡司馬の職を命ぜられ、その時に疏勒国王和徳が父を弑して位を奪い、貢物を献上しなくなったので、君は軍隊を起こして征伐に出かけました。部下に対しては膿を吸ってやる仁徳を持ち、酒を分け与える恵み深い心を備え、城を攻め野に戦うに際しては湧き出る泉のごとく謀事を思いついて、その威武はいにしえの専諸や孟賁に匹敵するほどでした。和徳は自ら手を後ろ手に縛って死罪についたので、軍隊をととのえて凱施しました。これを祝しての諸国からの贈り物は、に200万にも達し、それらはすべて官府の帳簿に記されました。この後、右扶風槐里令の位に移りましたが、実弟の死にあたって、喪に服するために官を去りました。続いて党錮の禁(宦官との政争)に触れ、7年間郷里の家に隠れ暮らしました。
光和6年(183)、ふたたび考廉の位に就き、同7年3月には郎中に任命され、酒泉禄福の長を拝しました。妖賊の張角が幽州・冀州に兵を起こし、兗・豫・荆・楊の各州でも時を同じくして動乱がはじまりました。県民や町家も反乱をなし、城市や役所を焼きうちにするなど民衆は騒ぎ立て、不安に恐れおののきました。三郡は危急を告げ、羽檄が頻りに発せられたので、その時、聖主が多くの臣下に相談したところ、みな口々に「君(曹全)こそが(反乱を鎮圧する武将に)ふさわしい」と述べたため、郃陽令となり、生き残りの軍隊をたてなおして、残党を切り平らげ反乱の根を断ちました。そして、古老の商量や、有徳の人物であった王敞、王畢らに、民を恵みあわれむ上での要点を尋ね、老人をいたわり慰め、老齢の寡夫や寡婦をいつくしみ養いました。自分の金で穀物を買い入れて、重病で目の見えない老女の桃妃らに恵み与え、また匕首薬や神明膏を調合して、自ら遠く離れた亭まで持っていき、部下の王皐、程横らがそれを病人に与えたところすっかり治ったのです。こうした恵み深い政策が行きわたっていくさまは駅伝よりも速く伝わり、人々は子供を背負ってまで、あたかも雲がわき出るように次々と(故郷に)帰ってきました。壊れたかねきや家屋を修理し、商店が立ち並ぶようになり、季節に従って風雨はやってきて、毎年豊作が続き、農夫織婦、工人らはみな曹全の恩を深く感じたということです。
県はさきの和平元年(150)に白茅谷の水害に遭い、戊戌(延熹元年・158)・己亥の間にようやく水は退きました。これを期に城郭を新たに作ったのですが、この後は旧い家柄の者、学問を修めた者の官位は上がらなくなってしまいました。君はこうした優秀な人材が不遇なままに置かれているのをあわれんで、南の方角に役所の門をひらいて華嶽(華山)を望み、南に向かって人民を治めるようにしたので、学者の李儒、欒規、程寅らにそれぞれ官爵を得させることができました。政治を司る官舎や、役所の建物を広げ、また都へ赴いて皇帝に謁見するに際して、その費用は民から出させることなく、労役は必ず農繁期を避けるようにもしました。門下掾王敞、録事掾王畢、主薄王歴、戸曹掾秦尚、功曹史王顓らが、古い昔、魯頌、商頌といったほめ歌を作った奚斯や考甫の先例をよしとしてこれにならい、石に刻してその功績を記すこととしたのです。その辞はこう言っています…
聖明なる天子はうるわしく、道徳にかなっていることは明らかです。君は朝廷に官として推薦されて、西戎を征伐したので、その威はあまねくゆきわたり、遠国を安定させ、軍隊をひきいて凱施しました。槐里令となって政をとったが、弟を偲ぶ気持ちのあまり、弔に服して官を去りました。ああ、かの逆賊が城市を焼き払ったときに、君は特に命を受け、残党をたいらげ、服従せぬ者を滅して、人々を安んじたのです。役所を修理し、南門を開き、高い山を切り開いて、華山を望むようにしました。明に向かって治め、その恵みはひろくゆきわたり、官吏は政を楽しみ、民衆の生計は十分に足ることとなったのです。君は高い位にのぼり、三公(最高の位)までも極めてください。
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