山傅(ふざん)は、明末清初の長条幅の連綿書を代表する書家です。
明末から清初にかけては、自我を強く打ち出し、魏晋時代の伝統的な書風にこだわらない個性的な表現が流行します。革新的な書人が多く現れ、とくに王鐸・傅山の2人が有名です。
今回は、傅山について、作品の特徴・書き方・作品も紹介していきます。
傅山(ふざん)の基本情報
傅山は1607年(明の万暦35年)~1684年(清の康熙23年)に生きた人です。
陽曲県(山西省太原市)の出身。
初めは名前を鼎臣、字は青竹としていましたが、のちに名前を山、字を青主と改めました。
雅号は非常に多く、石道人・嗇廬・丹崖子・随厲・六持・朱衣道人・僑山・僑黄老人・真山・五峰道人など、他にも30余りあります。
彼は代々学者の家に生まれ、幼少のころから才能に恵まれ、20歳の時には、十三経(経典)・諸子・史籍を読破し、仏教・道教にもわたって真理を探究し、イスラム教の教義にも親しみました。
透視ができる霊能力を備えていたともいいます。
また医学者としても有名でした。彼の治療は、普通の施術とはちがっていたらしく、“仙医”と呼ばれました。
傅山の人生
傅山についての伝記を読むと、性格は非常に剛直で、厳格な人であったことがわかります。
明の時代は教壇に立つ
崇禎16年(1643)には、山西省晋陽の三立書院で学問を教えていました。
学者として名高い顧炎武・閻若璩らとも親しく交際し、学問が広く深い人でした。
清王朝への抵抗
傅山が生まれた明時代末期は、中国各地で内乱が相次ぎ、政治的にも経済的にも不安定な状況下にありました。
崇禎17年(1644)38歳の時、ついに清軍の侵略により明王朝が滅んでしまいます。
傅山が三立書院で教壇に立った翌年のことです。
明滅亡後、傅山は道士(道教を広める人)の朱衣をまとい、放浪して地方に行っては清朝に抵抗する活動に参加しました。朱は明王朝を象徴しています。
1654年(順治11年)には投獄されています。
戦乱のために一家の財産が傾き、生まれ故郷にいるときは、旧石器時代のようなほらあな生活をして母を養う生活が20年も続きました。
その間の生計は、医術調薬でまかないます。薬局に「衛生堂薬飼」と自分で書いた看板を掲げていたそうです。
清王朝の役人として招かれるも辞退する
清の康煕17年(1678)、皇帝は特別に博学鴻詞科(人材登用の科目名)を設け、かくれた才能のある人材を選抜しました。ただし、この政策は、一面では清王朝に反抗する知識人をうまく手なずけ従わせる目的もありました。
この時72歳だった傅山も、この政策の対象にされます。給仕中の李宗孔らによって博学鴻詞科に推薦され、翌年には北京に連行されもしましたが、彼は病気を理由にかたく辞退し続けました。
彼は清朝に仕えることなく、一生明朝に対する忠義を守ったので後世までも尊敬されています。
郷里での最期
その後は郷里において書画の生活に明け暮れ、康煕23年、78歳で亡くなりました。
傅山(ふざん)の書道作品の特徴・代表作品
傅山の書学歴
まず、傅山がどのように書道を学んでいったのかを紹介します。
傅山は書道を8歳で始めました。
練習した書家の筆跡は、最初は鍾繇(魏の政治家・武将・書家)、次に王羲之・王献之(その息子)、また虞世南の小楷を学び、さらに顔真卿の「顔氏家廟碑」「争坐位文稿」、そして王羲之の「蘭亭序」に進んだといいます。
また一時、元の趙孟頫や明末の董其昌の真跡に接して、2人の流麗さを習ったものの、こうした手先の技巧の多い書は、俗でよくないと気づき、顔真卿の丸みのある素朴な書を学びました。顔真卿の書法の習得は、傅山の家の伝統でもありました。
しかし、顔真卿の書法をいくら習っても先祖のように書けないことを恥じ、彼の子供や孫には、「書作の基本は人格だ、すぐれた人物になれば書も自然と奥深くなる」(「作字示子孫」)という意味の詩を趙孟頫風で書いて見せ、こんな風になるなよ、手先ではごまかせないぞ、と戒めました。
傅山(ふざん)の書道作品の特徴
傅山は、楷書・行書・草書・隷書・篆書の5書体ともによくしたとされていますが、隷書の作品は確かな作品をみません。
楷書は鍾繇風の要素を加え、家学だった顔真卿の書法が根底にあります。
傅山の代表的な物といえば、行草で書かれた長条幅の作品でしょう。
行草の作品は多様な表現がなされており、それぞれの作品をひとくくりにすることはできません。とくに、連綿主体の迷路のような複雑な筆路をしている作品のイメージが強いです。偽物の作品も多く出まわっています。
金石に目を向けた先覚者の1人で、篆書の作品も残しています。
傅山(ふざん)の作品には代筆されたものもある
傅山の作品の中には、本人ではなく他の人に代わりに書いてもらう「代筆」の作品もあります。
代筆には甥の傅仁(1638~1678)が担当していましたが、その死後は、とても似た作品を書いた1人息子傅眉(1628~1684)が担当しました。
また傅眉の長子傅蓮蘇も祖父傅山の書風を受け継ぎましたが、妍美に劣っています。