書体が時代が進むにつれてうつり変わっていったなかで、もっとも大きな変化が起きたのは漢末から魏・晋へかけての、篆書・隷書から楷書・行書・草書への移行でした。
このような時代にもっとも書をよくし、またもっとも指導的地位にあったとされているのが今回紹介する鍾繇です。
蘭亭序で有名な王羲之も鍾繇の筆跡を学んだとされています。
今回は鍾繇について、書家としてどんな人だったのか紹介します。
鍾繇の基本情報
鍾繇しょうよう(151~230)は、字を元常といい、潁川郡長社県(河南省許昌県)の人。
彼の伝記は『三国志』魏志という正式な歴史書でみれます。
そのなかの鍾繇伝によると、
はじめは漢王朝に仕えて「尚書僕射」という高官でしたが、魏の曹操に仕えて魏王朝の建国に大きな功績を残し、魏に仕えて大尉(三大臣中の一番)の位につきました。晩年は、魏の功臣として「定陵侯」に封ぜられ、また「太傅」という最高の栄誉を与えられました。
太和4年(230)、80歳で亡くなりました。
つまり、漢末期から魏にかけて活躍した政治家です。
『三国志』魏志では、鍾繇は政治家としての業績ばかりで、書家としての紹介は1つもありません。
ただ、おなじく『三国志』魏志の管寧伝で胡昭という人に触れた中に、
「胡昭は史書(隷書)をよくし、鍾繇、邯鄲淳、衛覬、韋誕とともにならびに有名であった。尺牘(手紙)の筆跡はよく手本とされた」
と書かれていることから、正式な歴史書においても鍾繇が書に優れた人だったことがわかります。
ただ、彼は本来政治家であって、書はただそのたしなみの1つにしかすぎず、書についての伝記はありません。ところが、彼は後世、政治家としてよりも書家として有名になったため、いろいろな記事が書かれています。
鍾繇の書の評価が書かれた文献
鍾繇は生涯政治家として活躍した人だったため、書家としての確かな記録は残っていません。
しかし、鍾繇の書家としての伝記や逸話は、魏の後の時代(南朝以後)の歴史書や書論などに語り継がれてきています。
鍾繇の書に関する記事が残されているのは、魏のつぎの西晋時代からです。
西晋時代は胡昭と並べて評価される
西晋時代では、鍾繇と胡昭と並べて評価する文献が伝わっています。
書家としての鍾繇を紹介する最初の文献は、衛恒の『四体書勢』です。
西晋の衛恒の『四体書勢』に、
「魏のはじめ、鍾繇と胡昭の二家があり、行書の法をよくした。2人とも行書を劉徳昇に学んでいたのだが、鍾繇はやや風変りである。しかしながら、それぞれ技の巧みさをそなえており、いま世間で盛んに行われている」
とあります。
また、晋の次の宋時代の羊欣の『古来能書人名』(秦から東晋にかけての書人を品評した著録)にも、
「(鍾繇と胡昭の)2人はともに劉徳昇について学んだが、胡昭の書は肥え、鍾繇の書は痩せていた」
とあります。
梁の庾肩吾の『書品』にも、
「劉徳昇のよいところは、鍾繇と胡昭がそれぞれにその優れたところを採り入れた」また「胡昭は肥えて鍾繇は痩せている」
とあります。
どの記事も、鍾繇が漢末の行書の名手として知られた劉徳昇に学んで、同郷の胡昭と並べて評価されていたことが書かれています。そしてその特色としては、鍾繇の線は細く痩せていて、胡昭の線は太く肥えていることをあげています。
東晋時代の人物評価に鍾繇がでてくる
西晋の次の東晋時代(317~420)になると、その時代の人物評価に鍾繇と比べる文章がでてきます。
『宣和書譜巻七』によると、
「陸玩(278~342)の筆跡は線が細くて力強く、鍾繇の書法がうかがわれる」
とあります。
唐の張懐瓘の『書断』では、
「王濛(309~347)は、隷書は鍾繇を手本として学んだが、形状は似ているが筋骨が備わっていない」
とあります。
宋の羊欣の『古来能書人名』にも、
「衛夫人は鍾繇の法をよくし、王羲之の師となった」
「王廙(267~322)は章楷をよくし、謹んで鍾繇の書法を伝えた」
とあります。
これらから、西晋時代では鍾繇は胡昭とを並べて評価されていましたが、つぎの東晋時代になると胡昭の名前は挙げられなくなるようです。
『宣和書譜巻七』によると、この2人はともに劉徳昇から学んで行書をよくしましたが、胡昭は用筆が鈍くて重く、鍾繇の細くて力強い筆づかいに及ばなかったので、胡昭が亡くなってからは名前が上がらず、鍾繇だけが行書の大家として世に知られるようになりました。
鍾繇の筆跡は王羲之に学ばれた
蘭亭序を書いた人で有名な王羲之は東晋時代に活躍した書家です。
王羲之は行書が優れた人で有名ですが、楷書においては鍾繇の筆跡を手本にして学んだとされています。
というのも、王羲之は衛夫人と叔父の王廙に書を学びましたが、2人とも鍾繇の楷書を習った書家です。
このことからいえば、王羲之の楷書は鍾繇に淵源し、「鍾派」に属するのです。
王羲之が書について論じた言葉(『自論書』)の中に、
「近ごろ多くの先人の書を観てきましたが、鍾繇と張芝だけはほんとうに並はずれて優れており、その他の人の書で、鑑賞にたえるほどのものはありません」
と言っています。
王羲之についてはこちらで詳しく紹介しています↓
鍾繇が得意な書体は隷書・楷書・行書だった
鍾繇が書いた書跡はどれも南朝時代に鑑賞され、彼は3つの書体をよくしたと伝えられています。
すなわち、『古来能書人名』によると、
「鍾繇の書に3体がある。1つに銘石の書と言われるもので、もっとも優れたものである。2つに章程書と言われるもので、世々秘書の官に伝えて小学を教えたものである。3つに行狎書と言われるもので、存問に用いるものである。」
まとめると以下の3つです。
- 銘石書(隷書)
- 章程書(楷書)
- 行狎書(行書)
ではこれらの書風はどのようなものだったのでしょうか。解説していきます。
鍾繇は隷書をよくした
1つ目の「銘石書」とは、碑銘に用いられる書体のことで、隷書をさします。
鍾繇は漢末から魏のはじめまで生きていた人で、その生涯の大半は漢代にすごしています。
その当時の書体は、隷書が流行していた時代でした。
たとえば、隷書の曹全碑は西暦185年、張遷碑は185年に作られており、魏がはじまるのは220年で、わずか30年の違いしかありません。
鍾繇が生きていた時代はまだ漢末の隷書が盛んな時期だったことから、彼が隷書をよくしたというのは自然なことでしょう。
鍾繇は楷書をよくした
2つ目の「章程書」というのは、公文書や記録などに用いる書体のことで、秘書官に授けたり、学問を教えるための実用体のことです。
これは今日のいわゆる楷書に相当するものです。
鍾繇の作とされる「宣示表」はこれに当たります。
楷書は漢末から魏の時代に生まれた書体です。鍾繇が生きていた年代と被りますね。
そのため鍾繇の楷書は隷書が実用化されたような、楷書と隷書の中間のような書風です。これを「鍾繇体」と呼びます。
また鍾繇は書道史上における楷書の第一人者であり、北宋時代には「正書(楷書)の祖」と呼ばれました。
鍾繇は行書をよくした
3つ目の「行狎体」は、手紙に用いる書体のことで、行書をさします。
本来、鍾繇は胡昭とともに劉徳昇から行書を学んだことになっています。
張懐瓘の『書断』などでは、鍾繇の行書を王羲之、王献之、張芝とともに神品4人の中に入れています。
しかし、今日において魏時代の人の行書をみることはできず、この書体がどういったものなのか実際を知ることはできません。