張旭(ちょうきょく)は中国の唐時代(7世紀ごろ)に生きた書家です。
草書の名手として知られ、草書の中でも狂草というジャンルを生み出した人です。
狂草を受け継いだ懐素とあわせて「張顚素狂」とも呼ばれています。顚・狂はそれぞれ、張旭と懐素に対する人物評語です。
今回は、狂草を生み出した張旭とはどんな書家だったのかを解説し、代表作品も紹介します。
張旭の基本情報
張旭は、字は伯高、呉(現在の江蘇省蘇州)の人です。
官職は左率府(警備にあたる官庁)の長史(古代の官職)にまで出世したので、後世、張長史とも呼ばれます。
草書の名手であるという以外、詳しい伝記のわからない人物で、正確な生年と没年も明らかではありません。
唐の蘇渙の懐素上人草書歌に、「張顚没来二十年」という句があり、かりにこの詩が作られたのを、懐素の自叙帖が書かれた大暦12年(777)の前後とすると、およそ天宝(742年 – 756年)の年末ごろまで生存していたことが推定できます。
唐時代の文豪である韓愈は「張旭は他の技能に手を染めず、草書に専念した」といいますが、書に関する逸話は多く残っています。
とくに有名なのは、“詩聖”杜甫の「飲中八仙歌」に「張旭3杯、草聖伝う、帽を脱ぎ頂を露す王公の前、毫を揮り紙に落けば雲煙のごとし」と謳われたことでしょう。
酒好きで、酔っぱらうと奇声をあげながら草書を揮毫し、ときには頭髪に墨をつけて書きました。
酒の酔いがさめると、自分の作品を見て、神を得たとし、もう1度同じものを書くことはできないとして感じ入っていました。
そんな彼を人々は“張顚”と呼びました。
張旭の書学歴
張旭は、おじにあたる陸彦遠に書法を習ったといいます。
陸彦遠の書法は王羲之を基にしているため、もしこれが真実なら、張旭も王羲之書法の脈流を受けているでしょう。
一方、張旭自身は「公主(内親王)の輿を担ぐ人夫が道を争うのを見て、また鼓吹を聞いて筆法を会得した。また公孫(伎女の名)の“剣器舞”(舞踏の演技名)を観て書の真髄を悟った」と言っています。
ただ目の前にある特定の現象にもとづいて書法の発想を求めているのです。
張旭は、こうした独自の技法と酒に酔って我を忘れている状態で書作したのでしょう。
しかし、そうした彼の普通から逸脱した草書が本物であると信じれる作品は1つも伝わっていません。
張旭の作品を紹介
ここからは張旭の作品を紹介していきます。
張旭の作品はほとんどが石に刻された碑帖ですが、最初に紹介する古詩四帖は肉筆で書かれています。
草書古詩四帖(こししじょう)
草書古詩四帖:1紙、縦29.1㎝で5種類の色ちがいの彩箋を接いだ195.2㎝の巻子装です。遼寧省博物館に現蔵されています。
いかにも普通から逸脱した草書ではありますが、結構はゆるみ、点画も浮薄なところが目立ちます。
またその「自言帖」なども、張旭が創始したと伝える“折釵股”めかした筆法を随所にみせていますが、技術は劣っています。
徐邦達氏は、黄庭堅の証言によって、こうした放縦ないわゆる“狂草”は、晩唐の亜栖の手によるものだろうと言っています『古書僞訛考弁』。
顔真卿が「張長史は、姿性は顚佚であるが書法は極めて規矩にかなっている」といい、黄庭堅は「どの字も法度にかなっている」と評価しています。この「規矩」「法度」は、すなわち王義之の書法の規範をさしています。張旭の逸話のどれもが、書くときの状態が変わっているというのであって、作品が変わっているとは言っていないのです。
晚復帖(ばんふくじょう)
晚復帖は、淳化閣帖の第五巻に収められています。
しかし、二王(王羲之・王献之)の草書の典型を学んだ痕跡がうかがえます。
張旭の本領は、連綿草ではあっても字の形は確かで筆勢が力強い書風であったと思われます。
郎官石記(ろうかんせっき)
開元29年(741)
張旭の作品と言えばほとんどが年紀不詳の草書ですが、楷書の作品もあり、その年紀は明らかとなっています。
原石は北宋の末に失ってしましました。
郎官(郎中と員外郎)に任ぜられた人名とその年月を刻し都庁に建てた、これはその序文で「郎官石柱記」「郎官庁壁記」ともよばれます。
蘇軾は「簡遠な書風で、あたかも晋宋の書人の作のようだ」と評価していますが、この書には南朝風の楷書の趣が色こくただよっています。
厳仁墓誌(げんじんぼし)
天宝元年(742)
1991年、河南省偃師県で出士しました。
末行に「呉郡張旭書」と銘記されています。
書体は郎官石記と同じ楷書ですが、書風は異なり、右肩下がりの字がまじり、波法の扱いに一貫性がなく、左払いや懸針の呼吸が短いです。
また後半3分の1ほどは、結構のゆるい字が目立ち統一感に欠けます。
しかし郎官石記にみかける別字が、この墓誌にも同一体につくること、また両方に共通の用字が30個ほどありますが、共通の筆ぐせであることなどによって、張旭本人の書とされています。
文字を刻した人の腕のせいもあって郎官石記より一格劣りますが、重要な発見です。