泰山刻石は小篆の典型として尊重されています。
今回は、泰山刻石が作られたきっかけや特徴などを紹介します。現代語訳も紹介します。
泰山刻石の基本情報
泰山刻石は秦の始皇帝が自らの功績を記した石碑です。
石碑の作者は李斯とされています。この石碑は書者の名前が分かるものとしては最も古いものです。
書体は篆書(小篆)。
泰山刻石が作られたきっかけ
秦の始皇帝は、天下統一を果たすと、地方の政治や民の生活状態を視察するために各地を巡回しました。
その際に、自分の功績を記した碑を各地に建てました。
これらすべての碑の作者が李斯とされています。
嶧山刻石(紀元前219年・山東芻県東南)、泰山刻石(紀元前219年・山東泰安)、琅邪台刻石(紀元前219年・山東諸城東南)、之罘刻石(紀元前218年・山東烟台)・之罘東観刻石、碣石刻石(紀元前215年・河北昌黎西北)、会稽刻石(紀元前210年・浙江紹興東南)
しかし、原石のほとんどは失ってしまっており、泰山刻石は幸いにも古い拓本が伝わっていますが、原石は破片2個、10字しか残っていません。
泰山刻石の変遷
泰山刻石の全文は『史記』(秦始皇本紀)で確認することができ、本来は222字ありました。
しかし現在は破損がひどく、わずか10字しか確認することができません。
どうしてそうなってしまったのかを紹介します。
宋の大観2年(1108)、劉岐が泰山の山頂でこの石を発見しました。
高さは1.4メートルあったといいます。
発見当時すでに文字の磨滅が多かったそうです。
明時代に再び土の中から発掘され、嘉靖年間(1522~1566)に碧霞祠の東廡に移動したときにはわずか29字となっていました。
さらに清時代の乾隆5年(1740)に火災に遭い10字だけになってしまいました。
現在は破損し、破片2個に10字だけ確認することができます。
そのわずかな破片2個は、現在山東省泰安県の岱廟に保存されてます。
泰山刻石の拓本
泰山刻石の拓本はとても少なく、明の安国が所蔵していた、宋時代の拓本といわれる165字のもの、53字のものの2種類が有名です。
現存する拓本の中でもっとも字数が多い165字の拓本は日本の書道博物館、次いで53字の拓本は三井文庫に所蔵されています。
泰山刻石の特徴
泰山刻石の文字の線は横画を水平に、縦画を垂直、一定の細さのままです。
字の形は縦長で左右対称にまとめられています。
文字の大きさは等しく揃えられ、丁寧で変化のない線が何とも無表情な趣を醸しだしています。
泰山刻石の現代語訳/日本語訳
(皇帝臨立。作制明法。臣下脩飭。)
皇帝は位につかれて、制度を作り法律を明らかにし、臣下は整え修めた。
(廿有六年。初幷天下。罔不賓服。)
26年(紀元前221)、初めて天下を併合し、服従しないものはなくなった。
(寴䡅遠黎。登茲泰山。周覽東極。)
皇帝はみずから遠方の人民の間を巡幸され、この泰山に登り、あまねく東のはてまでもご覧になった。
(從臣思迹。本原事業。祗誦功德。)
従臣は皇帝の事跡を思いしたい、事業のみなもとをたずね、つつしんで功徳ととなえる。
(治道運行。者產得宜。皆有法式。)
天下を治める道は天下とともに運行し、多くの産物はほどよきを得て、すべて法式にかなっている。
(大義著名。陲于後嗣。順承勿革。)
大義ははっきりとあらわれて、子孫に垂れ示し、のちに世に継承されて改めることがないように。
(皇帝躬聽。旣平天下。不懈於治。)
皇帝がみずからお聴きになったように、すでに天下を平らげ、政治をおこたらなかった。
(夙興夜寐。建設長利。專隆教誨。)
早朝に起きて深夜に床につき、永久の利を建設して、ひたすら教誨を盛んにされた。
(訓經宣達。遠近畢理。咸承聖志。)
教訓となるべき常法はのべ伝えられ遠近もすべておさまり、みな皇帝の意志を体した。
(貴賤分明。男女體(禮)順。愼遵職事。)
貴賤の区別は明らかとなり、男女の礼は乱れず、慎重に職事に従っている。
(昭隔内外。靡不清浄。施于昆嗣。)
あきらかに朝廷の内と外とをわけ、清浄でないものはなく、子々孫々にほどこして、徳化はつきることのないように。
(化及無窮。遵奉遺詔。永承重戒。)
後の者は遺詔をささげ守り、永久に受け継いで重く戒めとすべきである。
(皇帝曰。金石刻。盡始皇帝所爲也。)
二世皇帝はいう、金石の刻は、ことごとく始皇帝が作られたものである。
(今襲號。而金石刻辭。不稱始皇帝。)
今、自分が皇帝の称号をついだが、金石の刻辞には、始皇帝となっていない。
(其於久遠也。如後嗣爲之者。)
後世になると、あとの皇帝が作ったと思われるかもしれない。
(不稱成功盛德。)
始皇帝の成功盛徳を称することにはならないのである、と。
(丞相臣斯。臣去疾。御史大夫臣德。昧死言。)
丞相の臣(李斯)、臣去疾(馮去疾)、御史大夫の臣徳らは、死を恐れずに申し上げます。
(臣請。具刻詔書。金石刻因明白矣。)
臣ら請い願いますには、詔書をつぶさに刻せば、金石の刻はそれがために明白となりましょう。臣ら死を恐れずに要請いたします、と。
(臣昧死請。制曰。可。)
二世皇帝が制していよう、よろしい、と。