西狭頌(せいきょうしょう)について
西狭頌は、中国後漢時代の171年(建寧4年)に刻された摩崖碑です。
いわゆる「三頌」(石門頌・西狭頌・郙閣頌)の1つでです。
甘粛省成県抛沙鎮東栄村にあります。この地域は海抜1200ⅿの天井山があり、西狭頌は魚竅峡という天井山下の深い峡谷の崖壁に刻されています。
崖面は、題額をのぞき高さ約220㎝、広さ約340㎝で、西狭頌本文、題名、五瑞図および図下題名があり、一連のものとして同時につくられました。
本文は20行、行ごとに20字、全文で295文字あります。
さらに21行目には「建寧四年六月十三日壬寅造。時府」と、完成の年月日を加えています。
内容は、武都太守であった李翕が、功績西狭(武都郡の西の峡谷の意味)の険しい道を修理して、人々の往来を安全にしたという功績を称えた記念文です。
李翕について
西狭頌の内容の主人公である李翕について紹介します。
翕、字は伯都。漢陽郡阿陽県の人です。
阿陽県は、今の甘粛省の静寧県の南にあります。
170年(建寧3年)、武都郡(今の甘粛省成県)の太守となりました。
西狭頌の碑文によると、はじめ李翕は、その家柄によって宮廷に出仕して禁衛にあたり、宮中に宿衛しました。弱冠にして典城(郡守)となりました。
また碑文に「三たび符を守に剖つ」、つまり三たび郡の太守に任命されたといいます。これについては、牟房の『仏金錧秦漢碑跋』に詳しく考証して、張掖、黽池、武都、これが三郡だろうとしています。
この武都郡において、建寧4年に関中平野から武都への道を確保するため工事を行い、険しい道を修理して浅道をつくりました。
この功績を摩崖に刻して称えたのが西狭頌です。
西狭頌の内容
西狭頌の内容は、前段の「漢武都太守~粟麦五銭」は、西狭(狭は峡の仮借で武都郡の西の峡谷をいいます)の道を修理した武都太守李翕の功徳を記しています。
後段の「郡西狭中道~刊斯石曰」は、峡谷の危険な場所に土木工事をおこし、人々が安全に往来できるような道を作るにいたった事情が書かれています。
そのほか、工事に関与した官吏の官名、本貫、姓名も書かれています。そのなかの「従史位、下辨、仇靖字漢徳。書文」とあります。この「仇靖」という人物を古来から西狭頌の文章をつくった人物としています。
西狭頌の特徴
西狭頌の書体は、隷書を主としていますが、篆書の字もいくつかみえます。
また、人・王の1画目を2画で書く筆法があります。
こうした筆法は、のちの魏・晋の隷書に受け継がれて様式化していきます。
西狭頌の書風の評価
西狭頌の評価について紹介します。
清の方朔の
「字の大きさ縦横三寸を下らず。寛博遒古たり。高巖立壁に称うに足る」(『枕経堂跋尾』第3)
という評価をはじめ、
徐樹鈞が、
「疎散俊逸たり。風吹きて僊袂の雲中に飄々たるが如し。復た尋常の蹊逕を以て探るべきものにあらず」(『宝鴨斎題跋』巻上)
といい、
楊守敬が、
「方整雄偉たりて、首尾に一字の欠失なし。尤も宝重すべし」(『学書邇言』)
といい、
また梁啓超が、
「雄邁にして静穆。漢隷の正則なり」(『飲冰室題跋』)
といいます。
これら緒家のほめたたえる言葉は、西狭頌の美を示唆しています。
西狭頌の謎
西狭頌については、宋時代の趙明誠の『金石録』をはじめ、以降の明・清時代の40種類近い金石書や題跋類に記されています。
しかし、成県の魚竅峡は、遠くしかも危険な断崖であるため、実地にいって調査した学者はおらず、どれも拓本と伝聞によっています。
そのため、西狭頌の本文、題額、題名、五瑞図の位置については説がまちまちです。
篆書1行の「恵安西表」は、張徳容や方若が西狭頌のことをこう呼んでおり、その位置からみて題額と考えられます。ただしこの題名の意味はわかりません。
五瑞図、本文、題記が刻された崖面の石質はきわめて緻密ですが、崖面は波うって湾曲しており、刻は薬研彫で字口は鋭いといいます。
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